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Uchiakeの記 vol.3 吉祥寺篇その3

Uchiakeの記 vol.3

●1人目 シンガーソングライターにならなかった看護師
●2人目 申し込み時の悩みが解決した映画プロデューサー
●3人目 集団の中にいることが苦手な納棺師
●4人目 台湾人の彼に会えない新社会人
●5人目 自閉症の兄を持つ男性
●6人目 漆器職人の亡父を持つDJ
●7人目 お菓子作りの好きな栄養士(手製クッキーを持参!)

●自閉症の兄を持つ男性 タナカさん
「打ち上げに参加できるならって、思って。ぱっと申し込んだら、整理番号1番で。であと、よく読んでみたらですね、あ、こういうもんなのか、って思ってですね(笑)う-ん、なんか打ち明けることあるかなって思いながら」」
基本的に内面を人前でさらさない性格だという彼は、それが何に起因するのか考え始めたという。そして、自閉症の二つ上の兄の話を始めた。
「二つ上なんですけれども、小学校であいつの弟だ、とか言われるわけですよ。本当は肉親だし、一人しかいない兄弟なので守ってあげなきゃいけないのに、恥ずかしいわけですよ。認めるのも嫌で。もちろん一緒になっていじめることはないんですけども、知らんぷりしたり、っていうようなことが結構あって」
小学校の頃、思い返すと上の学年に「マキコ」と言われるそういうお姉さんが、いたなと思い出す。わたしの通っていた学校では「けやき学級」と言ってそこに通う生徒が学年に二人くらいはいた気がする。マキコさんは多分何等かの障害があって、いつもニコニコして、言葉の発音は独特だったが、元気な感じの人だった。マキコさんとは通学路が同じだったが、いじったときの反応を面白がる男子たちからからかわれていた印象がある。ちょっかいを出されて「逃げろー」という男子たちを、マキコさんは声をあげて追いかけていたような気もする。その人に兄弟姉妹がいたかなんて、そしてどういう気持ちで学校に通っていたかなんて、考えたこともなかった。
「中学にあがって、私中学高校と寮生活だったんですね、で、あんまり会うことがなくなってほっとしたんです。兄弟の話とか出ても、適当に「あぁ...」みたいににごしたり。で、ある日ですね、私が高1のとき、彼が高3くらいのときに、やっぱりそういう子なのでいじめを受けるわけですよ。家から電話があって、大変なことになったと。集団で暴行を受けててですね、膵臓が破裂して」
思いがけない展開に、一同息をのむ。ふと、先日活動再開をしたコーネリアスの小山田さんのことも思い出す。障がい者をいじめる。それは、一部の人間の性質に組み込まれている自然なことなんだろうか。それとも加害者側に何らかのストレスがかかっているという不自然な状況が引き起こすものなんだろうか。ふざけ半分で、あるいはストレス解消のために、高3というほぼ大人と同じ体格の男性が、膵臓を破裂させられる。想像しただけで痛ましい。
「病院に担ぎ込まれて、もう死ぬかもしれない、っていうことになって、え?と思って。病院に行ったら、本当に、もうこれだめだ...って。でもなんか実感わかないんです。で、また寮に帰って、子供の時のこと、いろんなこと思い返して...そこで初めて、懺悔して謝罪するわけですよ。ほんとに申し訳なかったって。ほんとに号泣しました」
タナカさんは「子供の時のこと」を思い出して初めて、お兄さんという存在が自分にとってどんなものだったのかを気付いた。そのことに私はどうしても心を揺さぶられてしまった。タナカさんにとってはある時期まで兄の存在が日常であり自然であったと思う。一緒にふざけたり、笑ったり、何をしたら怒るのか、何かをきちんと伝えるにはどうしたらいいか。一緒に育った兄弟として、お兄さんとのコミュニケーションの取り方をきっと十二分に知っていたはずだ。しかし、小学校という子供の社会で生きるようになったタナカさんは、そこでの兄がどのように笑われ、奇異な視線にさらされるのかを知る。子どもは子どもの社会の中で育つ。小山田さんが通っていた和光でも、早くからインクルーシブ教育の精神をかかげていたのだろうが、教師の適切な指導や行き届いた目がなければ暴行が起きていたわけで、その時期、適切なインクルーシブ教育がされていた学校は日本でもわずかだったに違いない。悲しいけれど、大人の適切な声かけや指導がなければ、子どもたちの中にも異物を排除したり差別する傾向が表れる。だから、タナカさんは自閉症の兄を持ちながら、子ども社会の多数派に紛れようとしたのだ。自分はみんなと同じ側の人間だと、兄とは違うと思いたかった。誰でも、多数派の影響を受けて成長することを考えれば、自然の流れだっただろうと思う。子育てをしているとよくわかる。親の育て方がすべてのように言われるが、子どもというのは時代の空気や、教室の空気を敏感に察知し、そこと矛盾が起きないように自らを少しずつ変えながら成長している。怖い先生に当たれば委縮するし、周りを気にしたり、「いい子」が求められる時代の空気と無縁ではいられない。親がどれだけのびのびと育てたつもりでも、いつしか「先生に何か言うなんてやめて、お母さん」と過剰に憶病なことを言うようになっていたりするのだ。教室という社会が誰も排除しない、助け合えるような空気に満ちていたら理想的だが、それはよほど優れた先生が指導した場合だ、と色々なケースを思い返しながら思う。学校によっては大阪の「大空小学校」のように校長が一大改革を行い、学校全体にそのような空気を育んだ例もあるが、まだまだ一部にとどまっている。
 いずれにせよ、お兄さんと過ごした小さいころの時間を思いだしたタナカさんは、そこで号泣する。その頃の自分がどれだけ、まっさらな心で兄と関われていたのか、自分が小学校に入り、そうした心からどれだけ離れてしまっていたのか、タナカさんは気付けたのだ。そしてその時に、お兄さんと自分を切り離すことで、多数派の中でなんとか自己を守って来た自分が実は抱えていたしんどさにも出会ったのかもしれない。
 この国で大人になるということは、周りの目を気にする、ということとほぼ同義である。政府が「屋外でマスクは人ごみ以外もういりません」と発表して、それを半数の人が適切と受け止めたアンケート結果を見たが、街ですれ違う人でマスクを外している人はほとんどいない。私くらいだ。すごい国だと改めて思う。マスクが好き、基礎疾患のある家族がいる、といった人が屋外マスクを継続することは理解できるが、うっとうしいと思ってもとりあえず周りに合わせるという人も多い。小さいころから自分を抑え、周りに合わせることに慣れさせられている。それが美点として現れることもあるだろうが、それによって多方面で生じている問題も沢山ある。周りに合わせられないことなど本当は大したことではなくて逃げ道を探しながら逃げていいのだけれど、「合わせるべき」という価値観で生きてしまえば、自分の生き辛さもぐんとあがってしまうし、歴史的にみたら「とりあえず周りに合わせる」人々は、国の政治が危険な全体主義に傾いても、当然のことながらそちらに合わせてしまう。私がPTAに馴染めないのは、そういうことも関係がある。PTAはその時代の「常識」を映す。戦前の植民地で、あるいは戦後何年かたった国内でさえ、PTAは時に、差別的で見るに堪えない要求や決定をしている。今は、もっとマシでしょう、という声が聞こえてきそうだが、私は集団の感覚を信用できない。
 もしも自閉症のお兄さんが暴行を受けて膵臓を破られなかったら、タナカさんは今も微妙な距離感でお兄さんを捉えるしかなかったのかもしれない。誰かに兄弟のことを聞かれても言葉を濁したまま、このuchiakeでお兄さんのことを話すこともなかったのかもしれない。高校1年生のとき、事件をきっかけにお兄さんを幼いころの自分の視点から捉えなおせた、その経験はとても大きいものに思える。幼い日の自分の感覚を思い出すとき、人は自由の感覚を思い出す。周囲の価値観に縛られず、感じるままに振る舞うこと。そこにこそ人間の善性が息づいているのだと、タナカさんの話を聞きながら改めて思った。
「寺尾さんは、音楽はサウンド指向で、曲も素晴らしいから聞いているんですが、歌詞も非常に共感するものがあって惹かれています。本も全部読んだんですけど、弱者というか小さな声みたいなものを描いている。兄は今ちゃんと普通に生活しています。体が栄養を十分に摂れなくなってしまって、いつも痩せていますが」
出会いがなければ、社会の中で理不尽な状況に耐えなければいけない人たちがいることに、いつまでも気づかない人もいる。社会にはなかなか届かないいくつもの声で溢れている、ということ。そんな中、「私たち」だけではなく「どこかの彼ら」にも思いを寄せるということ。「気づかない」人にはいつまでも手に入れることのできない想像力が、マイノリティの当事者に寄り添う人にはたしかに与えられるのだ、と思った。


●漆器職人の亡父を持つDJ アキノさん
「自分も今の方のように、つい申し込んでしまって笑。後から「言うことあるかな」と考えました。気楽に弱音を吐けるのは、最近腰痛で悩んでることくらいなんですが。ただ趣旨を見て思ったのは、同じ寺尾さんの曲を聞いて来た、同じ聴衆として、みんなの声を聴いてみたいなというのがありまして。それすごく今日、果たせた。自分の好きなことを仕事にできなかったというのも、それぞれの気持ちがやっぱりあるなあと。自分も普通の仕事をしていますが、どうしてもこだわりを持ってやってしまう」
そう話し始めたアキノさんは、どことなく山が似合うような、物静かな佇まいの人だ。自らの仕事の仕方の話から、10年前に亡くなったお父さんの話が始まった。
「父親が漆器の職人をしていまして。自分も手伝いをしていたんです。ほんっとに昔ながらの人で、とてもついていけないなと。当時は絶対継がないぞと思っていたんですが、職人的な気持ちっていうのは、すごい受け継がれているなと。ほんとに、ほんとにしばらくしてから、ちょっとでもその技術を受け継いで、その世界で自分の物を表現したり仕事にできたら、ほんとに良かったな、とは思ったりしましたね」
お父さんがやっていた仕事の意味を見つめ、その不在からしばらくして訪れた心境の変化を表すために、アキノさんは「ほんとに、ほんとにしばらくして」と言った。その時間の経過と、少しの苦さと、過去を振り返るときの泣きだしたくなるような気持ちが、その時フロアに共有された気がした。それはアキノさんにとって一つの後悔であるかもしれなかったが、同時にお父さんへの思慕と、その仕事への敬意の表明でもあった。先のタナカさんもそうだったけれど、本当に個人的な話だ。それを、ためらいつつもここで共有してくださったことに感謝の気持ちが生まれた。ためらいつつ語られることがらの佇まいの美しさや、静かな切実さを皆で感じることは、一本の密度の濃い映画に浸るような、貴重な経験だった。
「今日はみなさん音楽をやっている方も結構いて、一緒に演奏したらぐっと近くなれるなと、心から。それは本当に羨ましいと思いました。自分は美術か、絵描きの真似事はずっとしてるんですが、音楽はもっと人の間が近づくなと思って。子どもの頃から音楽は好きで、DJの真似事なんかをしてます。寺尾さんの曲をかけたりとかも」
「真似事」という言葉に、プロではないという謙遜が感じられたけれど、美術にせよDJにせよ、好きなことを細く長く続けていけるのは、素晴らしいことだ。私は、アキノさんの中に残っているお父さんと取り組んだ漆器の記憶に興味があった。体が多分覚えている。いつかまた取り組んでみてもいいのでは、と投げかけた。お父さんがいない今だからこそ、漆器でできる彼なりの表現があるのではないか、という気がした。
「映画も好きなんですが、最近やっと「パワー・オブ・ザ・ドッグ」とか「ドライブ・マイ・カー」なんかを見て、「今現在を生きてる人たちの話だなあって思えるんですよね。音楽を聴いてそういう風に感じられるものって、今なかなかなくて。そこがやっぱり寺尾さんの曲を聴くと、ほんとに美しいなと思うこと以外に、今、ここ、みんな一緒に生きているっていうか、それぞれ色々感じながら生きているなっていうのが、そこで繋がれる感じがして。ずっと聞かせてもらってます」
そういえば、私は今日また考えていた。『天使日記』には書いたけれど、私の「使命」の話だ。「芸術」でも「表現」もないと言われた。それは「子供でいること」だった。だから例えば、私は「自分史上最高に素晴らしいアルバムを一枚作ること」と「この世の中が少しマシな場所なって人々がより近く、緩やかにつながること」のどちらかが叶うのだったら、断然後者を選ぶなあ、とぼんやり考えていたのだ。「この世の中が少しマシな場所になる」ということ、そこに資することができる音楽が作れたり、音楽活動ができればそれでいい、と感じるのだ。だからアキノさんの言葉は嬉しかった。
私たちは今どういう場所にいるんだろうか。
それぞれの立場の違いを越えて、誰の声に耳をすますということは可能だろうか。
私たちの夢はどのように可能なのだろうか。
そういうことを音楽を聴くことで思い出したり、そこで歌われた痛みを音楽を通して分かち合うということは?

歌を作って歌うことは私にとっていつだって、新しく人と出会うためのチケットだった。もちろん歌うことが好き、弾くことが好きだ。でも、歌を通じて、あるいは著作を通じて、いつだって、いくつもの大切な出会いが生まれた。歌って弾いて書いて出会う。そして別れ、また出会い、また出会う。大切な何かを受け取る。そのことがすべてだった。一人の人間には見えないものが沢山ある、そのことを忘れないために、人と出会い続けたい。私の人生は多分それだけだ。


uchiakeの記 vol.2 吉祥寺篇その2

Uchiakeの記 vol.2

●1人目 シンガーソングライターにならなかった看護師
●2人目 申し込み時の悩みが解決した映画プロデューサー
●3人目 集団の中にいることが苦手な納棺師
●4人目 台湾人の彼に会えない新社会人
●5人目 自閉症の兄を持つ男性
●6人目 漆器職人の亡父を持つDJ
●7人目 お菓子作りの好きな栄養士(手製クッキーを持参!)


●3人目 集団の中にいることが苦手な納棺師 キクチさん
「今日ライブで「君が誰でも」を聞いていて、友達が東京にそろそろ来そうだなと思いました。福岡にいるんですけど」
と言うキクチさん。「君が誰でも」は「遠くのあなたとステップ踏む そんな夢の続きをみよう」という歌詞がある、明るい曲だ。「そういう勘が鋭いのですか?」と問いかけるとそういう訳ではないのですが、といいつつ「ああ、来るなと思いました」という確信に満ちた言葉が印象的だった。
「悩みと言うほどじゃないんですが、人が集団になったときの暴力性みたいなものが怖くて。父が養子に行っているので、親戚で集まると、血はつながってるんだけど、うちだけ苗字が違うということがあって、どこか遠慮がちになるというか、肩身が狭いような感じがありました。そういうことと繋がっているかな、と最近思いました。いい年して、そういう恐怖心があるので、こういう場所に飛び込んでみようかなと思って今日参加しました。一対一だと大丈夫なのに、人が沢山いると恐怖心が生まれてしまう。それが何かなと」

なんだかとてもよく分かった。私も人間は大好きなはずなのに、心地よく思えるのはせいぜい3人までで、それ以上増えてしまうと居心地の悪さばかり感じてしまうことが多かった。長女がHSP(繊細さん)の気があると気づいてから読んだ本には、「大勢の中での会話が苦手」という項目もあって、私はこの項目だけは当てはまった。それは、人が嫌いということではなく、誰かとの、本質的な、腹を割ったコミュニケーションを強く求めているために、表面的な会話が苦痛になってしまうということらしかった。とても納得がいった。
現在3人の娘を育てているが、保護者会は本当に苦手だし、PTAでベルマーク整理・集計を半強制でやらされたときの、何の差しさわりもないような薄いおしゃべりもとても苦手だった。そこそこ仲の良いお母さんに誘われて5人ほどのランチに出たこともあったが、あまりに居心地が悪く、途中で適当に理由をつけて抜けてしまった。それ以来、ママ友とのランチは誰か一人と、ということにして、それ以上の付き合いは避けている。PTA活動も一通り参加したけれど、集団の醜さにぶつかることがあった。PTAに熱心な人というのはそんなに多くない。しかし、要領のいい人は沢山いる。「面倒なものはさっさと子供が1,2年のうちに終わらせてしまいましょう」という消極的理由から積極的に役を受ける。そういう人は、5、6年になって何もやっていない人たちに対し余裕があり、優位に立つことができる。そして、何もやっていない人を許そうとしない人が多い。自分たちは「きちんと計画的に」役を引き受けてきたからだ。彼らはその分「平等主義者」なのだ。引っ越す前の杉並の小学校時代、クラス懇談会に出てみると、こんな会話が聴かれる。「あの人、持病があってできませんとか泣いてたんだよ」「フツーに元気じゃんね」。役からの免除を希望する人は、自分の健康状態や家庭状況、仕事の事情など、プライベートを明かし、それが正当と認められなければ役を受けざるを得ない。ボランティア活動であるPTAは全国およそすべての学校において半強制参加のシステムとして長年機能してきたのだ。戦後アメリカから導入された民主主義的組織は、日本的集団主義の中で強制性を帯び、それが伝統となってしまった。会長の一念発起で、こういった状況から脱し、PTAが解体されて本来のボランティア組織として生まれ変わっている学校もあるが、まだまだ少ない。最近は不登校の子も増えて来て、退会希望者もふえていくと思われるが、今三女が通う、東京都市部にある小学校の会長の話では、「前会長は、長期の不登校を理由に退会を求めたお母さんの希望を受け付けなかった」という話も現会長から聞いた。単なるボランティア組織であるはずなのに、どれだけ人々を縛り付けたいのだろうか。私は、PTAを抜けることにした。この小学校ではまだ一人の退会者も出ていない、ということも理由の一つだった。退会の前例は必要である。そして何より私自身が、役員選出の場に巻き込まれることが嫌だった。くじで保護者会欠席者が勝手に委員に決められたり、「どなたかに決まるまで帰れません」と軟禁まがいのことがまかり通ったり、本部役員以外の他の細かな役決めでも、後任が決まるまで誰かが延々とお願いの電話をかけ続けなければならなかったり、色々とおかしいのだ。おかしいと思う集団とは距離をとる。それは許されることだと思う。

「だから、なるべく人と関わらずにできるような仕事を選んできました。納棺師は、ご家族とのコミュニケーションもありますが、そこまで多くないので。亡くなられた方と一対一だと、割と、やりやすいっていうか。納棺師自体は、専門学校がある訳ではないので、納棺会社か、大手葬儀社の下請けの会社の納棺部門で先輩に長くついて習う感じで。古い業界なのでパワハラみたいなこともあったりするんですが...。綿を使ってご遺体を整えたりですね」
キクチさんは静かに語ってくれた。集団が苦手ゆえにこのような仕事を選ぶということがあり得るのだなと、想像もしなかった展開に驚く。あだちくんは、『音楽のまわり』のエッセイでも中学時代が灰色だったような話を書いてくれていたので、あだちくんは集団どうですか、とふると
「めちゃくちゃありますよね、怖いっていう感覚。暴力側、集団側に回る人ほど怖がっていて、だからこそつるんだり、周りを見下す発言したり、それによって安心を得ている。一人でいるのが怖い。集団への恐怖っていうのは、今もないわけではない。でもそういう時は体を器にしちゃう。目を見て話すのが恥ずかしいとか。そういう感情と結びついている回路を変えてしまう。そっちは一端おいておいて、というそういう使い分けはするな。それをみんなができるようになったら良くなると思うんだけどね」
あだち君の話をなるほど、と思いながら聞いていたが、私の場合は恐怖心というよりも、そういう集団が強いてくる理不尽さに対しての怒りの方が強いかもしれないと思った。しかし、人によってはその場を逃げ出すこともできず、恐怖心の方が強くなってしまうだろう。あだち君が続ける。
「こないだもね、サウナ行ってテレビ見てたら、芸能人がカラオケ歌う企画で、芸人が上手に歌うんだけど、それをすごい下げるナレーションが入るのね。ビートたけしが歌ったら、そんなこと言わないだろうに。それでイラっとしちゃって」
お笑いのいじりは問題があることはよく指摘されている。何度も頭を叩いたり、笑いのために相手を貶める。神戸の教員間の陰湿で幼稚ないじめが表ざたになった事件があったが、ああいう陰惨な場面をビデオ録画して笑い合う傾向も、テレビのお笑いやバラエティ番組の影響が皆無とは言えないだろう。
 集団に恐怖を感じながらも、この「uchiake」の場に思い切って飛び込んでくれたキクチさんに感謝したい。同じ集団でも、圧があり恐怖や理不尽さが生まれる集団とそうでない集団は何がちがうのだろうか。まだ答えは確とはでないのだけれど、この日の「uchiake」の雰囲気を思い起こすと、個人が個人としてやってきており、初対面ゆえの適度な距離感がそれぞれにある、ということになるのかもしれない。しかし、それぞれ参加者はこちらの音楽を聴いてくれている関係なので、よそよそしさのようなものはあまりない。誰かの話を聞きあったり、語りあっただけなのだが、終ってみると、不思議と満たされた気持ちと、それぞれの参加者への親しみや愛しさ、感謝のような感覚が残るのだ。


●4人目 台湾人の彼に会えない新社会人 ミカンさん
 「誰かに知ってほしいけど、家族にも言えなくて」と切り出したのはクラリネットの彼女、ミカンさんだ。学生時代に半年一緒にいた台湾人留学生の彼が台湾に帰った後、何度かは台湾に行けたが、コロナで二年半以上会えていない。最初のころは10時間ほどの長電話を毎日していたという。一年目は、「来月は会えるかもしれない」という期待があったから何とか乗り越えられた。しかし、二年目に入る。去年の4月くらいから、結婚すれば行き来が許される、と結婚を考えもしたが決められずにいた。

「地元では、色んな思い出があって、仲が良かった時期の私達を知っている知り合いも多くて、そのことに言及されるのがしんどかったので、月一回くらい、つくばの方に良くいくようになったんです。People Book Storeとか、千年一日焙煎所とか。月のうち、そっちに一週間くらい滞在して、すごい救いになって。音楽やったり芸術やってる人も多くて、ずっと繋がり続けたいと思う大切な人が出来て」
つくばのその界隈の人々は私もライブに呼んでもらったり、本を売ってもらったりと繋がりがあった。筑波大の芸術系専攻の学生たちが自然とそのあたりに集っているようだ、ということは知っていた。台湾の彼に会えない辛い現実から逃げたくて、自分の幸せになることを求めてつくばに行っていたというミカンさんは、二人だけの答えの出ない苦しい世界から抜け出せていたと言える。彼女は迷いつつも、彼からの結婚の求めに答えを保留したいことを伝えた。すると、彼が自殺未遂をするなど不安定になってしまったという。
「もともと、鬱病で自殺しようとしてたんだけど、私と出会って希望を感じたって言ってくれていました。それが、また不安定になってしまった。家庭の話を聞くと、父親に殺されそうになっていたり、信じられないような中で育ってるんです。これから私は新しい会社での生活が始まるし、どこに進んでいくんだろうって。どうしたもんだろうかって。不安定になった彼に「大丈夫、結婚しよう」って言ったりして、「はあ、どうしよう」って感じです。自分の中で誰かに聞いてほしいって思っていて、こんな話聞かされて困ってしまうと思うんですけど...」
コロナという先の見えない状況、そして機能不全家族のもとで育った、精神的な危うさを持った彼との遠距離恋愛。事態の重さに、一同簡単には言葉がでてこなかった。
「‥‥‥少なくとも、彼が不安定だから、そこに引っ張られるようにして結婚を決めるのは違うかな」
少しの沈黙のあと、私が言葉を探しながら答えると、
「もうちょっとしたら会えるようになるんじゃないかな。色んな国が開き始めているし、それがそう遠くない時期に来てもおかしくないと思う。お辛いとは思うんですが。宙ぶらりんですよね」と伊賀さん。
「機能不全家族で育った人を支えることについて。覚悟のいることだと思います。ちょっと自分が寄り添ってあげればよくなるんじゃないか、っていう考えがいかに甘かったかと、私自信も思い知らされたことがあって。心の底から愛しあっている二人だったらそこから抜け出せる可能性があると思うんですけど、それが揺らいでしまっている状況や、中途半端な好意だと大変なことにもなりうるな、というのは感じています」
彼と彼女の間にはどの程度の信頼関係が生まれているのだろうか、遠距離によって、または彼が不安定になったことによって、その関係に変化は起きていないだろうか、ということが私の気になっていたことだった。
「それだけ離れてしまうと、自分のホントの心とか気持ちとかも、どこにあるのか、ちょっとわかんなくなってしまうような、感じもあるかもしれないから、やはり再会を待ってですよね」と言うと、ミカンさんは、「ごめんなさい、一個だけ」と全く違う話を始めた。
「天使の話なんですけど。ピンクの羽が現れたんですよ。話していいですか?そのときバイトしてて、彼にあった2019年です。初めて私のバイト先に来たんです。それで、トイレ行ってお尻ふいたら出てきたんですよ、それ。ピンクの羽。え、私、鳥人間?とかって意味がわからなくて、お母さんにメールしまくって。びっくりしすぎて、捨てて。色んな要因を考えたけどほんとに何もなくて笑。なかなか誰も信じてくれなかったけど、つくばには信じてくれる人がいて。自分から出てきたのか、その瞬間落ちてきたのかわからないんですけど‥‥‥。何年かたってから、あれほんとだったのかなって思って三歳からつけてる日記読み返すんですけど、ちゃんと書いてあるんですよ、その日の日記。その一年後くらいに仲いい子に話したら、ピンクの羽は恋愛の印だよって。あ、だからあの時期だったんだ、この人なんだって」
「ちょっと、待って。三歳から日記って!」
「つけてました。毎日ではないんですが。天使日記を読んで、あ、同じ人いた!って思ってそのことはすごく心の支えでした」
ユニークな人だ。しかし、私は、ちょっとほっとした。天使の羽のエピソードをとっさに出したミカンさんが伝えようとしたことを了解した。気持ちが色々と揺らぎつつも、彼の存在が、確かに彼女の中で根を下ろしているのだと感じることができた。今の話をこの場の全員が信じているかはわからない。けれど否定する人は誰もいなかった。私が「天使日記」を書いた人間だったこともあるだろう。天使の羽を拾う人がいるという話はどこかで聞いたことがあって、でもそれは半信半疑だった。しかし、目の前の彼女がそのような奇妙なシチュエーションでピンクの羽に出くわしている。作り話にしても思いつけないだろう奇抜なエピソードで、そこに妙なリアリティーがあった。
「それは安心材料というか、本当に縁のある人なのかもしれませんね」と言うとミカンさんは「うんうん」と嬉しそうだったので、「気長に待つ」と終わることができた。深刻に始まったけれど、不思議なエピソードによってほっこりと終わった不思議な時間だった。

uchiakeの記 vol.1 吉祥寺篇その1

uchiakeの記 vol.1

「uchiakeはじめます」と題して、2022年4月10日吉祥寺スターパインズで行った「冬にわかれて」のライブの告知と一緒にこんな文章を載せた。

  鳥取・汽水空港という素敵な本屋さんの店主森さんのこころみに
  Whole crisis catalogという冊子を作るものがあります。
  これは、お店のお客さんなど10人程度に自らの困りごとをシェアし、
  それをその場でみなで考えてみるという小さな人間の輪から生まれていく冊子です。
  冊子には、誰かの困りごと、訴えたいこと、気になることなどが並んでいます。
  そこには自分ではない誰かに見えている景色が広がっています。
  自らの無知をつきつけられ、社会の在り方や、人の幸福の在り方について
  一歩踏み込んで考えるきっかけになる言葉にあふれています。

  ずっとこのこころみに共感を感じ、森さんに敬意を抱いてきました。
  そしてふと思いました。
  東京でもこの小さな会合を持つことができるのではないだろうか。
  そして、東京にこそ本当はこういう場が必要ではないか。

  今回、冬にわかれてのメンバーにもこの考えをシェアしたところ二人とも
  「面白そう」「参加したい」という意思を表明してくれました。
  そこでまずは、4月のスターパインズカフェでの冬にわかれてのワンマンライブから
  このこころみを初めてみます。

  出演者やスタッフ内で行われる打ち上げを外に開くイメージまた、
  普段心のうちにしまっていること、感じていることを内側から表に
  出してみるという意味もこめてこの小さな輪をuchiakeと呼びたい
  と思います。

  基本的にはどなたでも参加できます。
  何かに困っている人、普段違和感を感じていることがある人、
  誰かと話し合ってみたいことがある人、家族や職場の人には
  言いにくいけれど、誰かの意見をきいてみたい人、とにかく誰かと
  話したい人、特に言いたいことはないけれど、自分の視野を
  広げるために輪に加わって耳を傾けてみたい人、寺尾紗穂や
  冬にわかれてやその他の音楽やライブから受け取っているもの、
  受け取ったものを伝えたい人、未来について、過去について、
  あるいは過ぎていく日々について、思うところを共有したい人など。

  人数が少ないので完全に先着順にはなってしまいます。
  またすべての会場でできることでもありませんが、場所を
  探しながら回数を重ねて色んなかたにお会い出来ればと
  思っています。
  uchiakeで集まった言葉たちをどのようにシェア、発信していくかは、
  初回集まったメンバーとも話しをしながら決めて行けたらと思います。

定員7名の枠はすぐに埋まり、「予約できなかったけど参加したかった」という声もいくつかもらった。この記念すべき第一回のuchiakeの中身をどのように、発信していくか。アイデアの本家の汽水空港にならって冊子を作るのもありだった。しかし、とりあえず、私がこの会に参加して受け取ったものをエッセイ「uchiakeの記」として形にしてみようと思った。それはあまりに濃密な時間だった。
参加者は仮名の人もいるが、読みやすさのためにカタカナ表記で名前をださせてもらい、原稿もご本人にチェックしてもらったものを、これから少しずつアップしていこうと思う。

Uchiakeの記 vol.1

●1人目 シンガーソングライターにならなかった看護師
●2人目 申し込み時の悩みが解決した映画プロデューサー
●3人目 集団の中にいることが苦手な納棺師
●4人目 台湾人の彼に会えない新社会人
●5人目 自閉症の兄を持つ男性
●6人目 漆器職人の亡父を持つDJ
●7人目 お菓子作りの好きな栄養士(手製クッキーを持参!)

●1人目 シンガーソングライターにならなかった看護師 ヤナセさん
 ライブが終わり、物販コーナーに行きサインに応じていると「あの、uchiakeは二回目もあるんですか?」と聞かれたので、「その予定です、地方でもできたらと」と答える。今回はバンドメンバー2名と共にひらくので、お客さん側の定員は7名だった。先着に漏れてしまった人かもしれない。
 店長の伊藤さんが、そろそろ食事もできていますので一階に、と案内してくれる。ちゃんと会話したこともなかった伊藤さんにメールでuchiakeの相談をしたとき、「ちょっと怪しげな会ですが・・笑」と言うと「怪しいけど、大事なことだと思います」と返事をくれたので、会の意図をちゃんと受け取ってくれていると感じた。挨拶してみると、ちょっと派手な感じの雰囲気の人だけれど、「uchiake、どうなるでしょうか。こっちがドキドキしちゃって」と緊張していて面白かった。一階に降りてみると、7名が円形に置かれた席についてそれぞれのミニテーブルには伊藤さんと打ち合わせてお願いしていたサンドイッチプレートが置かれていた。この時世、食べながらしゃべる会を始めることができないので、先に食べましょうと皆で食べ始める。最初伊藤さんから「ポテトとから揚げとかでいかがですか」、と相談されたとき、「ちょっとそれだけでは・・」と難色を示したことで意を汲んでくれたのか、マリネやサラダもあってバランスの良い、心づくしのプレートになっていて感謝する。楽器の片づけが終わって輪に加わった伊賀さんとあだちさんも食べ始める。
「これだけの人間がいて誰も話さないのやっぱ異様だよな」
とあだちさんが言う。娘たちの給食もこんな感じになっているのだ、と思う。これの4倍くらい人がいる教室で、しかも黒板を向いて互いの顔は見えない。おかしいことをおかしいと言える人は貴重だ。私も、担任に言って、市長への手紙にも書いたが、市の教育委員会の方針が変わる気配はない。市教委が変わらないと現場はなにも出来ない。教師は自分たちの頭を使わない、使えない。困ったシステムだ。
 早食いの私もさっと食べ終わり、先に食べ終わっていたヤナセさんから話を始めてもらう。彼は、前もってメールをくれていた人だった。曽我部さんのようなギター弾き語りに憧れたが自分には才能が足りなかったと、違う道を歩んだ人で、それでも一曲聞いてもらいたい曲があるというので、では当日弾き語りでお願いしますと返信していた。
「一曲だけそれなりにいいかなと思って作ったんですが、一曲だけ披露する場所もないし、今回聞いていただける機会があったら嬉しいなと思っていました」と曲のチューニングに入ってくれた。
 私がオープンマイクの話をすると、あだちさんが「僕も18才の時、高田馬場のカフェでオープンマイクでたことがあって、そこで三輪二郎と知り合ったの。そこで出会って20年してもまだ付きあいあるからね」と教えてくれる。音楽をやられてた方いますか?と聞くと、2人手があがる。一人の男性は、大学時代JBなどのコピーバンドをやっていたというベーシストだった。今は、歌の友人とたまにスタジオに入って、セッションをしているという話に、「それが一番楽しい音楽の形だよね」と伊賀さん。歌いたいから歌う、弾きたいから弾く。そしてお互いが必要である。そのシンプルな関係の朗らかさを思う。もう一人は、若い女性でクラリネットが吹けるといい、自分が元気のない時、自分でリラックスするためのクラリネットの曲を録音してそれに癒されているという。「自分で作った音楽に自分で癒されるっていいね」と伊賀さんが言うと、「自分で作ってるからこの次はこの音っていうのがわかっていて、その音がなるとお~って(笑)」とろけるような表情で独特の自由さで語る。
「作った音源をyoutubeにあげてもいいのでは」という伊賀さんに彼女は「まずは目の前にいる人を笑顔にしたい」と地に足の着いた言葉が返って来た。今月から社会人だという。
友人から相談されて、いい言葉が見つからなかったとき、クラリネットを録音して送ってあげたことがあるという。音を送る、というのは素敵なアイデアだ。坂口恭平も「いのっちの電話」の電話口でよく歌を歌う。その人のために、生み出された音。それを受け取る時、人は自然と心の鎧を脱がざるを得ないのだと思う。心のこわばりを緩ませる術。言葉の応酬だけではできないことがある。それをメロディが可能にする。ギター弾きの彼の準備がととのって「最高のライブの後で申し訳ない」と謙遜のあと、演奏が始まった。
 
なにげないよな風景の中 忘れてた幸せを思いだしたよ  
夢に見たよな 毎日の中 さりげない輝きを見逃さぬよう
シンプルな歌 シンプルな愛
そうさ そんなものを求めていたのさ

コーヒーを飲もう ケーキを食べよう
街の中 歩いてく 風に吹かれて
その角曲がり 少し行ったら
調べてたカレー屋があるはずだから

シンプルな時間 シンプルな日々
そうさ そんなものが大切だから
シンプルな歌 シンプルな愛
そうさ そんなものを求めていたのさ

素敵な音を聞いて、その音に憧れて、また音を生み出す。世界中で、音の魅力に魅せられて色んな音が鳴っているのだ。なんて素敵な光景だろう。
「僕の中では嫌いじゃないな、という曲でした。いい思い出になりました。ありがとうございました」
長い拍手が続いた。「嫌いじゃない」という言葉の響き、謙遜が入っているのかもいれないけれど、なんだかいいなと思った。まあまあいいんじゃないか、そんな力の抜けた雰囲気がある。誰に頼まれるともなく、人は奏でる。そこに自然な姿がある。人間という生き物への愛おしさが心にじわじわと満ちた。音楽を仕事にできなかった人とできた人、という分け方がある。「音楽を仕事にできなかった」と、よく耳にする。でも、音楽を現在進行形で続けている人と、もうやめた人がいるだけなんじゃないか、とも思った。後日あだちくんも「あの演奏きいていて、僕もそう思っていた」と教えてくれた。

●2人目 申し込み時の悩みが解決した映画プロデューサー ハセガワさん
 お次は、ベースを弾く彼、ハセガワさんだ。職業は映画プロデューサーだが、実は申し込んだ時に抱えていた悩みがほぼ解決したという。
「映画の現場だったんですが、めちゃくちゃ忙しいというのもそうですし、監督じゃないので、自分の求めている表現ができないというところでひっかかっていました。整体に行ったんですが、「映画、飽きたんじゃないの?」って先生に言われたら、急に楽になって。自分を表現することと、一つの映画作品作ることは違う、作品を作ればいいんだと。自分の好きなもの作るんじゃないんだと」聞いていて、彼は自分の視点をずらせたんだなと思った。整体の先生という全くの第三者から、ぽんと投げられた言葉が、考え過ぎて固まっていた彼の考えをほぐした。詳しく見れば彼は映画に「飽きた」わけではなかったのかもしれない。しかし、その言葉を投げられたことによって、「あれ、自分は映画に飽きたのかな?」という疑問が生まれる。それが、煮つまっていた思考の隙間を作り、そもそも映画とは、プロデューサーとは、という自問に繋がっていったように思える。私は聞いていて、監督とプロデューサーの関係は、アーティストとデザイナーの関係に似ているのかな、と感じた。デザイナーは視覚的美意識のプロであり、3つの候補があれば「これがよい」という優先順位を当然付けられる人だろう。ただ、アーティストとの共同作業の中で、これは嫌だとかこっちの方がいい、という注文が当然ながら入る。それをいか現実に寄せて調整していくかというのが仕事なのだろうと、身近なデザイナーとのやりとりを思い出す。当然私はわがままを言う方だ。つまり、出来上がったものは当初デザイナーが最も良いと考えたものとはかなり変わる可能性が高い。だから、調整能力や柔軟性がデザイナーには最も求められる力なのかな、とうっすら感じている。おそらくは、ハセガワさんもそのことに気づけたのだろう。
悩みの多くは、自分の思い込みや自分の中で作り上げていた設定や限界、こだわりなどにとらわれることによって出口を見失うように思う。だからいったんそこから離れるためのきっかけが重要なのだ。人によって、友人やカウンセラーの言葉だったり、本や映画で出会った言葉だったりするのだろう。
「そういえば整体の先生に、自分が気に入ってる曲を聞かせたんです。それに「tandem」と蓮沼執太さんの「ロータウン」ていう曲と、ウェザーリポートの「バードランド」。そしたら「全部都会的な感じがする、街の子なんですね」って言われて笑。東京生まれ東京育ちなのでそういうのはあるかもなと」
私は伊賀さんからtandemが送られてきたとき、一匹のアリが歩いているイメージが浮かんだ。一方伊賀さんは「tandem」と名付けたものの、二人乗りなどのイメージで作ったわけではなく、「雨の中の街灯の光」「水面の光」など光のイメージから作った曲だという。
「寺尾さんのアリというのはよくわからない(笑)。整体の先生が街っぽいというのも、あまりよくわからない(笑)。人によってイメージが違うのが面白い」と伊賀さん。インスト曲は、特に人それぞれのイメージを喚起する。伊賀さんが続けた。
「アーティスティックな自分ではなく、組織の中で求められる自分の力に気づいて、見つけられたというのは良かったですよね。僕の場合は逆で、会社の組織には全然馴染めなくて、もともと会社員向きだと思っていたんだけど、全然違くて無理なんだと気づいて、30才前にミュージシャンの方に行った」。自分で会社員に向いていると思っていたというのが、恐縮キャラの伊賀さんらしくて面白いところだが、若いうちは多くの人が、自分がどのような人間なのかを明確につかむことはできていないだろう。自分の核の部分や、どこまで何を譲れるのかというのは、当然ながら一人一人違い、経験を通してしか見つけて行けないのかもしれない。
 「悩みは解決してしまったので...」と遠慮がちに話し始めたハセガワさんだったが、悩みが生まれ解決していく一つの事例をみなで共有できたのは、とても意味のあることだったと思う。


職質に思う

 最近昼間から職務質問をしている警官たちをよく見かける。呼びとめられた人は、DJみたいなキャップをかぶっていたり、見るからに変わった格好をしていたりする人もいるが、何故この人が呼びとめられたのか、と良くわからないケースも多い。いずれにせよ、カバンの中をくまなく荒らされ、5分だか10分だかの時間を無駄にさせられている。
 知り合いの音楽家も、コロナ禍で引きこもりに拍車がかかり、きこりか炭焼きか、というくらいにひげやあごひげが伸びて、職質にしょっちゅう遭うようになったとぼやいている。車の後ろの楽器や機材をつんで夜中走っていると呼びとめられて、検査されることが多いという。失礼な話だなと思う。
「それってさ、調べて何もみつからなかった場合、失礼しましたって一言言うの?」
そんなことは言われた事がないという。人間を「なんとなく怪しい」という究極のルッキズム、偏見によって呼びとめ、どれだけ急いでいたとしても、貴重な時間を奪い取り、お前は不審であるという無礼な態度をぶつけられるなんてまっぴらだ。100歩譲ってそれが町の平和を守る行為であったとして、検査終了後には丁重な謝罪とクオカード500円分くらいの検査協力のお礼の気持ちを渡すべきではないだろうか。それくらい失礼な出来事だと思う。
 亡父もよく職務質問にあっていたらしいというのは、父の死後、中条省平さんにお会いしたときに初めて伺ったのだが、父の場合、徹底的に弁論抗戦をして言い負かしていたらしく、ひっかかった警官もとんだ外れくじを引いたと思ったことだろう。しかし、本来それくらいの出来事だ!とどうにもこうにも腹立たしく思ってしまうのは、カエルの子というわけなのかもしれない。

光のたましい、あるいは老ピアノとのダンス

 ときたま、長いこと生きてきたピアノに出会う事がある。調律師さんが全霊をこめて調律する。それでも、ライブの途中で音が狂ってきてしまうような、そんなおばあさんピアノ。ギタリストが相棒を持ち歩けるのとちがって、ピアニストはその日出くわした相手と踊るしかない。踊る相手がよぼよぼのピアノだったとき、それはピアニストにとって不幸なのだろうか、ということをよく考える。
 ライブで出したい音が出ない。瞬間は焦る。次第に工夫してオクターブ上の音を強く出して補完したり、強いタッチではなく優しく奏でてみると気まぐれに音がでることもある。ピアノに翻弄される、といえばそうである。それでも、何とか状況を成り立たせようと頭も体もフル回転する。なんとかライブを切り抜けたとき、不思議な愛着が生まれているのを感じる。そのピアノが大事に思われていたらなおのことだ。
 あの日、上野は雨で、私はゆくい堂のおばあさんピアノと久々に再会した。はじめてあったのは、2年前の年末恒例のライブ。ゆくい堂での年一度のライブは、もう5,6年前にさかのぼるのだけれど、その時は、とうとうアップライトが入りました、と聞いてはじめてのライブだった。聞けば、音大のピアノをメンテナンスしている調律師さんのお母様のピアノだという。お母さまも亡くなり、もう老体のそのピアノを、それでも手離すことができずに、誰かもらってくれないか、と考えていたのだという。ゆくい堂でピアノが弾かれ続けることを本当に喜んで、ライブ当日もはりきって調律してくれたのを覚えている。
 あの日、上野は雨でそんなことも関係したのだろうか。ピアノは、低音の三音ほどが不思議な響きをだした。弾いてみて、曲のコードとぶつかるものは、ゆくい堂の丸野さんがその場で適当に(?)弦を調整してくれ、ひどい不協和音とならないようにした。結果、まるでピアノと声以外の何か別の楽器が加わっているような不思議な雰囲気が醸し出されている。
 これはいわば、私とおばあさんピアノとのこの日限りのダンスであり、対話である。人が老いるように、楽器も老いるということ。私たちだれもが不完全なように、楽器にもまた不完全な音があるということ。美しい整った音で演じる、という原則を外れたところに、何か不思議な化学反応がうまれるということ。そんなことを思いながら、このMVを作っていた。私たちはみな孤独な存在であり、ひとしく光の存在である。そんな歌詞の世界ともどこか響きあう作品になったと思っている。

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