SAHO TERAO / 寺尾紗穂

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Zinesterの夜

Zinesterの夜のことはなんとなく書き残さなければならないと思っていた。桜台poolで開かれたzine愛好家たちが集う音楽イベントに松井一平と参加したのだ。しかし私は桜台もzineも知らなかった。それで、当日会場に向かうのに、西武新宿線の遠い乗り場まで歩いてから、切符売り場の路線図を見上げて唖然としたし、ついてからも主催のモモさんにzineの説明をしてもらってようやく了解したのだった。なるほど、会場にはたくさんのフリーペーパーのようなものが置かれており、その中に私と一平さんの「おきば」も置かれているのだった。ハングルのものも目立つ。大学院のとき少しかじったので発音だけはできるハングルを見つめて、小さく発声してみる。中尾勘二インタビューという冊子もあって、しばらく立ち読みする。ライブ会場は地下二階、すでに中盤をすぎているが、とりあえずライブの空間に入ってみる。SJQという西から来たバンドの最中であった。室内の四方をお客さんが立って囲み、真ん中で演奏している。面白いことをやっていたが、室内は熱く、だんだん演奏が佳境に入ると薬物の酔いみたいになって、倒れそうになった。治りきらない風邪で今夜も発熱していた体は持ちこたえることができず、会場を出る。近くに珈琲家族という喫茶店があって、そこに入ろうとしたが、いや待てよと所持金の少なさを思い出して、200円で一杯飲めるドトールがないかなとうろうろする。こんなことを書くと、最近新譜で「珈琲」を出したくせに、けしからんと言われるのであろうか。私は、はっきりいって、コーヒーへのこだわりというものはほとんどない。好みとしては、酸味のあるものはいやで、マンデリンのような苦いものの方が好きという傾向があるが、ブレンドをだされれば黙ってそれを飲むし、アメリカンみたいに薄いのだって、ポーカーフェイスで飲み干せるだろう。新譜「珈琲」を出したかったのは、うちのレコード会社の社長で、コーヒー大好きなのも彼である。彼は中国茶も大好きで、訪ねていくと会議室で自ら湯の温度を計って入れてくれたりするのである。おそらく飲み物全般好きなのであろう。私は飲み物に対して食べ物ほどの情熱を持てない。食事の時も水分がなくてもまったく構わない。飲み物がないと食事ができない、という人はよくいるが、お前はよく咀嚼して唾液をだしているのか、と問い詰めたくなる。そのようなわけで、私は、200円のドトール珈琲を探してさまよっていた。すると松井一平に出くわして、彼もマックで奥さんのアキさんと珈琲飲んでいるところだという。そこにお邪魔することにして、アキさんとしばし話をする。
「最近はかまいたちはどうですか」
「少しあるけどあんなひどいのはもうない」
あんなひどいのとは、つくばライブに彼らと行った日に、アキさんのほぼ全身に生じたかまいたちのことだ。小さい頃からよくなっていた、というかまいたちの話を興味深くつくばまでの車中で聞いたのだった。一平さんが、朝おきてどうしたのほほの傷、ブルース・リーみたいだね、と言うと、テレビのニュースから、今日はブルース・リーの命日です、との声が流れてきたのだという。私は不思議なことが大好きなので、この二人の話を聞いているといつまでも飽きないのだ。

会場に戻ってみると、プカプカブライアンズの最中だった。テニスコーツ+ベースのグループだ。さやさんがドラムをやっていた。良い感じに力の抜けたドラムかと思うと、次の曲では男勝りな感じでバンバン進む。変化が魅力的だった。ふと、二人の大学時代のサークル室に迷い込んだようなそんな気分。私たちの出番はあっというまにやってきて、ライブもあっという間に終わった。今回は私が真正面を向いて歌って、一平さんの絵が映るスクリーンを一切見なかったので、最後の一音を弾き終えたとき、最後の絵は見られるかな、と振り向いてみた。すると、もうそこには絵はなく、一平さんの足元に投げ散らかされた絵の残骸が落ちているばかりだった。化学反応の花火は終わって、私の背後に確かに幻は生まれていたのだ。瞬間的にその残骸をいちいち見なくてもよい気がした。お客さんがまさに鏡のように、反応を返してくれた。私はお客さんの目の奥の静かな興奮を見つめていれば良いのだ、と思った。
「あの絵は捨てちゃうんでしょうか」
よかったです!と駆け寄ってきた二人の女の人のうち、一人が、一平さんの描いたまま床に捨てられている絵を見ながら私に尋ねた。
「捨てちゃうんじゃないかな、くださいって言ったらもらえるかもしれない」
一平さんの友達らしきその二人はzinesterらしく、それぞれ手製の冊子を一部ずつくれた。その一冊に「LIARS」と銘打たれていて、思わずページをめくる。「アンインテンディッド・ライアーズ=思わず嘘をついてしまう人」とある。蒼井優似のその発行人の顔を見つめる。「思わず嘘をついてしまう人?」
「あ、はい」
「私もです」
ほっとしたように蒼井優の顔がほころんだ。

この夜接点のあった人たちはどこか不思議となつかしく、そのことが今文章を書いていることにつながっているが、一人目は私が2年前の9月原発デモでアルタ前で歌ったとき、アルタ前に到着したときに話しかけてきてくれた人だ。DJもやっていて、自らは田んぼの音を田舎に録音しにいって、CDにしているという。一枚いただいてしまった。カエルや虫も都会では聞かれない種類の声が録音でき、その種類を聞き分ける耳ももっているという。
「それはすごいですね。私カラスの声を聞き分けられるようになりたいのですが・・独学されたんですか」
「小さい頃からそういう知識があって」
「希少なカエルの声なんか集めておいたら、絶滅してしまった場合なんか将来貴重な資料になりますね」
「まあそうですね、というか自分としては音楽を作っているつもりなんです」
CDを家で聞いてみると、その言葉には合点がいった。砂利を踏む靴音から始まり、川のせせらぎの音が強くなったかと思うと、カエルの声に近づく。その場で音を一斉に体感するのともまた違う、不思議な臨場感と緊張感。この日、ワンマンライブのチラシを一応持ってきてはいたが、落ち着いて配る場所もなさそうだったので、カバンにしまいこんであったものを一枚だしてきて差し上げた。

二人目は、私が10月に開催しているビッグイシュー応援イベント「りんりんふぇす」に過去三回も来てくれているという人だった。その人の目は、私のよく知っていた二人の男性の目によく似ていた。一人は2002年の上海で出会って一緒に旅をしたシャオピン。もう一人は名古屋在住だった、ファンの秋色さん。突然亡くなって骨壷になって私のライブを訪れた人。どちらも忘れがたい人だ。
「あの、あなたの目に似ている人、過去に2回出会っているんです」
一瞬困惑した二重の瞳が、なつかしく笑ってくれた。

もうそろそろ、帰らなければと思っているところに、さやさんが現れた。握手。
「ああ、寺尾さんに会うと元気になって、ワーーーってなる」
ワーーーっていうのは多分いい意味でとっていいんだろう。自分はどちらかというと、A型に見られるし、どちらかっていうと部屋もきちと整理整頓されてるって勝手に思い込まれるタイプなので、今のさやさんのような言葉をかけられることはほとんどないのだ。どちらかというとあんまり人のことは見ていないし、世話好きなタイプでもない。人を聖母のように包み込むスケールもないし、懸命に励ましたりするタイプでもない。だからさやさんの言葉が不思議だった。私は、初夏のクアトロのテニスコーツと作ったライブのことを思い出していた。それからラストで入ってもらったソケリッサのことも思い出した。ソケリッサと一緒に踊ってくれたテニスコーツ。幸せな時間。

帰りの電車で「LIARS」を読んだ。柳田国男は、子供の嘘は叱るなと書いていたと思う。それよりは頭の中をはみだしたイマジネーションにつきあってやれと。そんなことを思い出した。そして、虚構の持つ、人をいやす力についても「LIARS」を読んで考えた。電車を降りて階段を下りる間、私は「人でなし」とか「うそつき」とか罵られたこと、何回あったっけと思い出していた。改札にJRに乗り継ぐ切符をいれたら、切符の出口からポーンと切符が走り幅跳びしたみたいに飛び出した。熱でフラフラなのに足取りは早く、この元気はさやさんの言葉にもらったのかな、と思って、内から力があふれていくのを静かに感じていた。ふと気づくとタイツの足首には、昼間子供達とやったかくれんぼの時触れたのだろう枯れ草が、かくれんぼの続きみたいにじっとくっついている。

 かくれんぼは不思議だ。最初はみつかりたくないけれど、やがてみつけてほしくなる。そして見つかったら終わり、だ。もういいかい、まあだだよ、もういいかい、もういいよ。私たちは生まれてから死ぬまで、死神と長いかくれんぼをしているのかもしれない。その長さに心細くなったとき、zinsterの不思議な夜を思い出そう。一緒に幻を生み出せる相棒、LIARS、田んぼの音、もう会うこともない男たち、そしてひとつの言葉がどれほどの力をくれるか、ということについて、この先何度も思い返すことだろう。タイツについた枯れ草と一緒に。寂しい夜は、きっと。

FM横浜に行った日のこと

空腹をガマンできる人を羨ましくも思うし、恨めしくも思う。
空腹をガマンできる人はすべての人が「ある程度」は
空腹をガマンできると思ってそれをできない人にも強いる傾向がある。
そんなとき、我慢出来ない自分は、絶望的な気持ちで、
倒れそうになる身体を支えているしかない。
そうして、その人の空腹に耐えうる能力を力なく恨むしか術がない。

状況が許すときは、率直に空腹を訴える。
まあ大抵そのパターンだ。

去年知り合った松井一平と作った「おきば」について
音楽雑誌のインタビューを受けていた時も
松井さんは私との出会いについて
「開口一番、「おなかがすいたからどこか食べに行きませんか」と言われて
面食らった」と回想していた。
こちらはそんなことすっかり忘れていた。
あの日は、新世界での柴田聡子ちゃんとのライブのリハのあと
DJぷりぷりの自転車を借りて、
ヒカリエでやっているTAKAIYAMAの展示をみに
六本木から渋谷まで疾走してきたのだ。
お腹もへるというものだ。 

先日りんりんふぇすの宣伝にFMよこはまの
北村年子さんの番組に出演させてもらった時も
私は、桜木町についた時には、すっかりお腹が空いてしまっていた。
しかし時間はすでに待ち合わせに10分ほど遅れている。
私は、眼の前にある立食いそば屋を睨みながら、
日記帳をひっぱりだして、メモした番号を眺めながら
公衆電話にテレホンカードを入れた。
そんな古臭いもの、とお思いだろうが、私は未だにテレホンカードが手放せない。
携帯を携帯しそびれたりなくしたりすることが多すぎるからだ。
この時は携帯を前日の福岡のホテルに置いてきていた。
「もしもし、北村さんですか。あのもう駅には着いたんですが、わたしお腹が減ってしまったので・・あと15分くらい遅れてもいいですか」
会ったこともない私の図々しい申し出に対し、北村さんは
一緒のゲストのソケリッサもまだ誰も来ていないし一応
来てもらったほうが安心だから、何か買ってきてくださいと
最もなことをおっしゃったので、私はそばをすすりたい気持ちを抑えて
蕎麦屋で売っていたいなりずしを2つ買って現場へと向かった。

打ち合わせ場所にはすでにソケリッサのメンバーが集まっていた。
北村さんは大層美しい方だった。しかも襲撃事件などを耳にする度に
私もずっと考えていた小中学生や高校生にホームレスのことを考えてもらいたい、
ということを実践されている方だった。
「ホームレスの問題授業づくり全国ネット」の呼びかけ人が北村さんだったのだ。
私は特にソケリッサを全国の学校で公演できるようにならないものか、とか
ビッグイシューの販売員さんが教室で話せる機会が増えないものかとか
と考えていたのだが、北村さんたちは、DVDなども作成し、教師が実際に
生徒に教えられる教材を作り、実際に教室に野宿者の人を招くという活動も
されているようだった。北村さんたちは著書も昨年だしており、
頂いたその本を読むと、ホームレス差別の問題は、いじめの構造と同じで
大多数が傍観者である、という内容が印象的だった。

収録も無事終わり、ソケリッサの4人と北村さんたちと駅に向かう。
ランドマークから駅まで続く渡り廊下のような通路は風が強くふいている。
Kさんが「寺尾さんの歌をきいているとキャロル・キングを思い出すんですよ」という。Iさんが「まーたはじまったよ」と横でにやりとする。
Kさんはイギリスに10年以上暮らしていたので英語に馴染みがある。
「そういえば、寺尾さん、大貫さんのトリビュートアレ絶対買いますよ!」とYさん。
大貫さんはよく聞いてたんですよ、というYさんは私のライブにもよく来てくれる。
それで、急にラストの曲だけ踊りで入ってもらったりということもこれまで何度かしてきた仲良しだ。今日のラジオの収録の中で、Yさんが職を失ったのが耳の病気がきっかけだったこと、自分が販売者になる前はビッグイシューの読者でもあったことを知った。
「今日はじめて色々Yさんのことわかったな」
「そうですね、今まで全然話さなかったから」
困ったときはお互い様という言葉がある。
ビッグイシューにもそんな精神が流れている。
Yさんのこれまでは正に、それを体現してきたかのようだ。
支える側が支えられる側になることもあれば
支えられていた側が支える側になることもある。
ビッグイシューを広めることは、
多くの人が傍観者でいたがるこの社会を、ほんの少し人間味のある
ましな場所にしていくことだと思う。

帰りの電車は、私とKさんだけ湘南新宿ラインで新宿にでることになった。
Kさんの家は新宿中央公園だ。
ホームで電車を待っている時、Kさんは「キャロル・キング・ミュージック」というアルバムについて、一曲ずつ解説をしてくれた。そして一番最後に
「どうだろうか、私、これを日本語訳してみたのだけど、寺尾さんよかったらどれか歌ってみてくれないだろうか」
と控えめに言った。
好きに言葉は変えてもらっていいとのことだったので
OKした。電車では座って、イギリスでの生活やその前の話なんかを聞いた。
Kさんはそもそも、パチンコの景品などになるタバコ雑貨を扱う営業をしていたそうだ。給料はよかったが、働き詰めが嫌になって、イギリスへ渡る。
向こうでは、日本の雑貨店で働いたり、
スペイン人の相棒とイタリア女をナンパしたり
フリーメイソンの儀式の手配師をしたりしていたそうだ。
かなり謎な人である。

Kさんは背が高くおっとりして話すのもゆっくりだ。
「まあ、私の人生すべて逃げてきただけなんですよ。そもそもは家でえばっていた兄から逃げ、仕事から逃げ、イギリスも骨を埋めるとこじゃないと逃げ・・」
Kさんの声がのんびり響く。車両がここちよくゆれる。
どこにでも落ちているような人生と、
ハードだけどオンリーワンの人生とどっちが幸せだろう。
「まあいろんなもんから逃げてきただけだから、最後はね、この体使いきって終わりたいと思ってるんですよ」
逃げてきた話からいきなりきりっとした口調になって、すこしどきりとする。
Kさんは65歳。販売の立ち仕事は楽ではない。
「だからソケリッサの練習ね、もう始まるまでは販売のあとだからつかれたなーっと思っていやいやはじめるんだけど、始まっちゃうとね、全然。疲れを感じないの」
体力というのは100あって100使うとなくなるものじゃないのだ。
それは気力と密接な関わりがあって、
100使ってしまっても、それに向き合えばあと50も100も湧き出てくるような何か、というのがその人にとっての生きがい、といえるのだろうと思う。

公園で手製の家に横たわってキャロル・キングを日本語訳し、日々販売し、ソケリッサの練習をし、人生の終着点を見つめるKさん。
オンリーワンの人生の後半生、素敵としかいいようがない。

ソケリッサもみられるりんりんふぇす、13日ですよ!
http://singwithyourneighbors2013.jimdo.com/

仙台・2つの震災・犀の角

 仙台ライブは大雪だった。山形や福島から向ってくれたお客さんが来られなくなって会場は少しゆったりしていたり、タクシー乗り場の長蛇の列に並んだために芯から冷えきった上、リハ無しでの本番となったけれども、会場のスタッフの方は温かなコーヒーを用意していてくださっていたし、地方だというのに綺麗に鳴るグランドピアノはあったし、PAさんも本番の音を慎重に微調整していって下さった。お客さんの中には、長年ファンでいてくれた方の他にも、学校でチラシをもらって、という女子高生や、美容院でチラシをみて音楽は普段聞かないけど気になってという人、あるいは図書館にフライヤーがおいてあってぴんときて、という人など様々だった。みんな、この日のライブをセッティングしてくれた企画者須藤さんのおかげだ。須藤さんは最初少し年配の方かと勝手に思っていたら、私より2つ上の同世代の人だった。そして、何より私が今回嬉しかったのは、私がビッグイシューを応援するりんりんふぇすなどの活動を見て、自らビッグイシュー仙台支部と連絡を取り、会場での販売をセッティングしてくれたことだ。仙台に着いて、リハまでの時間は観光に使ってもよかったし、最初は女川原発まで足を伸ばしてみようか、いや、やっぱり松島まで行ってみるべきか、とも考えた。津波のやってきた海岸に立ってみたい、という気持ちもあった。それでも雪によって麻痺し始めそうな交通のことも心配だったし、何となく須藤さんご夫妻とお昼をご一緒したいと思い、お誘いした。普段は、外で食べるといっても一人で食べることの方が多いくらいだけれども、須藤さんとは話をしてみたかった。昼食後に空くだろう会場入りまでの午後の時間は、市内の大きな図書館に行って資料でも探そう、と思った。

 「アーティストを地元に呼ぶのはChocolat&Akitoに続いて二回目」という須藤さんはおとなしそうな感じの男性で、フライヤーを制作して下さった奥さんもおっとりとした愛らしい方だった。フジロックで出会ったというお二人は、趣味を同じくしている。これからもこのように、力あわせて地元へアーティストを招いていかれるのだなと思うと、何だかとてもうらやましくなった。私たちは、時折おとずれる沈黙の「間」に、少しはにかみながら、音楽の話や本の話、それからビッグイシューの話なんかをした。須藤さんは私がどうしてりんりんふぇすのような活動をしているのか、またなぜ「評伝 川島芳子」のような著書を出しているのか、気になっているようだった。そこで話は山谷でのSさんとの出会いや、戦前や戦争の時代とアジアへの興味、さらにさかのぼって、小学校時代に知って大きな衝撃を受けた関東大震災の時の朝鮮人虐殺にも及んだ。その時、須藤さんが、話をついだ。

「自分も震災の時の朝鮮人虐殺の話はずっと知らなかったです。それがある本を読んで、やはりその震災で捕まって、のちに恩赦が出たけれど、自分はそもそも罪を犯していないといって獄中で自殺した女性のことを知ってとてもショックを受けたんです」

須藤さんが「震災」と言ったので一瞬、二年前のことかとうろたえた。90年前の「震災」の話を私たちはしていた。9月1日、全国の学校で防災訓練はしても、その混乱の中で起こったことを、学校はほとんど教えない。だから多くの人にとって「関東大震災」は大正時代の自然災害、でしかない。本当に学ぶべきことは曖昧にされて後世に伝わらない。

昼には雪が上がると言われていた空は、時折うすく太陽の輪郭をさらしたが、粉雪は休みなく降り続けた。私たちは会話が途切れると窓から雪と空を眺めた。その時奥さんが口を開いた。「そういえば3・11の時も地震のあと、こんな天気でした」

 夫妻と別れた後、10年くらい前に作られたというメディアテークという図書館へ向かった。「ぜ~んぶガラス張りだよ、あ、トイレはちゃんと隠してあるから大丈夫よ」という愉快な運転手さんと別れて、図書館のある階にエスカレーターで上った。郷土史のコーナーを覗くと新宿の中村屋の相馬黒光の伝記があって、彼女も仙台の生まれだったことを知る。それをじっくり読みたい誘惑にも駆られたが、今調べている、南洋へ移住した沖縄移民についての論文があったのでそれを読むことにする。窓際の席に座る。タクシーのおじさんの言うとおり、壁一面が大きな窓だ。街路樹を背景に粉雪が舞っている。東京が湿気のある重たい雪が「降る」のだとしたら、今降っている粉雪は「舞う」という表現がしっくりくる。踏み心地も別物だ。軽い雪は時折吹く風に舞い上げられて、ふわふわと自由で美しい。活字を追うのに疲れたら、大きなカンバスに描かれる景色を眺めてぼんやりすればいい、仙台には素敵な図書館があるものだ。

 ライブの翌朝は雪もほとんど上がっていた。その代わり、試験会場へのバスを待つ受験生の列が立体歩道橋にあふれんばかりに続いていて、通りすがりのおばさんが「この歩道橋落ちやしないかしら」と心配するほどだった。タクシー乗り場もまた昨晩のように行列ができていた。大雪に受験生。イレギュラーな仙台満喫だ。出発までそれほど時間はないから、バスにすぐ乗れて、すぐ戻ってこれるくらいのところ。選んだ輪王寺はバスで15分。伊達家にゆかりのある曹洞宗のこのお寺は、山門から境内への階段までの道が長く、小さな山に続く林を背景にしたお庭が素晴らしい。雪景色であることも手伝って、短い訪問ながらとてもよい時間を過ごすことができた(積雪が思いのほか深く、お寺の方に長靴をお借りした。まあたらしい雪の上には猫の足跡があるばかりだった)。

帰りの新幹線に乗り込んで、鶴見俊輔『思い出袋』(岩波新書)を読み始めた。これは前日ライブ前に須藤さんが下さった本だ。昼食後別れた後に買いに行って下さったらしい。つまりこれが、須藤さんに関東大震災の混乱の中で逮捕され、獄中自殺した女性を教えた本だった。女の名は金子文子。朝鮮人朴烈の恋人だった女性。22歳だった。須藤さんの受けたという衝撃の大きさに反して、この本における金子文子の記述は新書見開き1頁とちょっとであって、私はむしろそのことが須藤さんの丁寧な読み方を反映しているようで興味深く感じられた。来る時も吹雪いていた福島のあたりは、帰りもまだまだ雪が降っているようだった。私は、須藤さんの中で単なる歴史の一点であった関東大震災が、強烈な事件をよびおこした現場として鮮やかに塗り替えられたその驚きについて、本を手に考えていた。しかし、そこが福島であったために、意識は再び2年前の大震災へと移った。いかにも寒々とした福島の雪景色が新幹線の窓をすぎてゆく。ふと、地震のあとに噴出してくるのは、時代の膿のようなものなのだろうか、と思う。

 『思い出袋』は鶴見さんが『図書』という雑誌に書いた連載をまとめたもので、文学、哲学、歴史、映画、そして人物についての短いエッセイがいくつも入っている。その中に「犀のように歩め」という一文がある。

「昔読んだインド人アナンダ・クムラズワミの仏陀伝では、「汝自身に対して灯火となれ」 と釈迦は説いている。自分自身が灯火となって、自分の行く道を照らすように、と言う。これは自分の角をしるべとしてひとり歩む犀の姿を思わせる。」                                                                                

  大学の一般教養の授業で選択した仏教の授業で、色々細かいことは忘れてしまったけれど振り返って一つずしりと自分の中に残っている言葉が、「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉だった。角は歩かない、歩くのは犀だ。でも、この言葉を聞くと、犀の視線と自分の視線とが重なる。犀が歩き始めると、視界の中に、位置を変えず、微かに一定に揺れ続ける一本の角が見える。これを自らの灯火と鶴見さんはとらえ、その灯火をたよりに自ら歩き、自らの答えを出す人間を犀に例える。

 「明治に入って国家が西欧文明を学校制度を通して日本中にひろげてから、思想はかえって平たくなった。この環境では犀を見つけることはさらにむずかしい。編集者は犀をみつけることが仕事のはずだが、実際にはその仕事の内実は、うわさの運搬である。」

 編集者に限らないと思う。何かをアウトプットする時、周りの評価や世間の常識の中でものを考え、そこからはみ出さない範疇で選択したり、答えをだすことに私たちはすっかり慣れている。その方が楽だからだ。まるでその術をうまく知っている人が、頭がよく、仕事の出来る人のようにも錯覚する。編集者として本や雑誌を作ることがそうなら、イベンターとしてイベントを生み出すことも同じだ。うわさに耳をそばだて、安全牌にうまく頼れれば、「成功」はなかば保証される。けれど鶴見さんは、うわさではなく、自らの嗅覚で発掘する、そういう姿勢を編集者に求めている。今回の須藤さんによる招聘とイベントの成功を通じて感じたのは、須藤さんが犀の角ような灯火を持っている人ではないかということだ。正直に言って、私の地方での動員力などまだまだこころもとないものだ。そしてそのあたりのことはいまやツイッターのフォロアー数を見れば大体予想できてしまうことでもある。フジロックの常連であれば、もう少し動員のできるアーティストを知っているだろうし、好きであろうし、その中から選ぶこともできたと思う。けれども須藤さんは私に十分過ぎる額を提示し、そのために自ら宣伝に図書館や美容院や音楽高校をまわってくださった。フェイスブックやツイッターでの宣伝はもちろんだけども加えてそこまで動きまわってくれたのだ。その気持ちが嬉しく、同時にその行動に敬意を覚える。すべての人にできることではない。私が犀である、ということではないし、それは問題ではない。こいつが犀だ、と信じて容易でない道を突き進むとき、犀を探そうとする人間もまた角を持って歩む一頭の犀と言える。自ら信じるものを信じとおす力、不可能を可能にする力。そこにはいつも人の心を動かす何かがあふれているのだと思う。

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