SAHO TERAO / 寺尾紗穂

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それでも言葉は優しくひびいて

 昨日、見てみたいけれど忙しくてとても行けないだろう、と思っていたのだが、直前に招待いただくという展開になり、なんとか時間も作れたので、エンディングで「あの日」という私の曲を使ってくれているという、ふたば未来学園高校演劇部『Indrah ~カズコになろうよ~』を国立劇場に見に行った。
 一言で言ってすばらしかった。幕が下りると、演出メンバーだろうか、3人の生徒が出てきた。司会のインタビューを受けて一人の男子生徒は「これはノンフィクションです」「とにかくミーティングを沢山しました」と言っていた。サラッと元気よく言っていたけれどすごいことだ。
 たとえば「ミッキー」のまねがうまい男子がいる。あのどこかくぐもった高い声でしゃべられると誰だってくすりとおかしい。でも、その真似は、以前学校でなじめなかった大人しい自分自身を塗り替えたくて練習したものだったと語られる。心がちくっとする。そしてそれがいわれるとおりノンフィクションであるのだとしたら、それを公にして演技を見せてくれている事実の迫力に、後からただ圧倒される。
 たとえば互いの存在について言いたい事があるけれど、うまく伝わらない姉妹同士。それぞれのモノローグが語られていく。自分は姉なのだからもっと頼って欲しい。お姉ちゃんは優しすぎて頼りにならない。とげだった二つの心は後半重なっていく。姉は妹をおんぶしてもっと頼っていいんだよと歩く。優しい言葉を聴きながら、客席で泣いている人の気配を感じる。福島から応援に来た出演者の保護者のようだった。多分、東京であの地震を迎えた自分と、泣いている福島の人、見てきたものがあまりにも違う。それでも言葉は優しく続いて、会場の人全部を包み込んでいた。
 演じる生徒たちがあまりにも自然体に青春を生きているから、ふと忘れてしまうけれど、劇中では時おり、ニュースで聞きなれた福島の地名が入ってくる。それで、一瞬あの3・11の事実の重たさを意識する。でもいくつかの重要な場面を除いては、みんなその影響を受けているのか受けていないのか分からない日常のテンションで劇は進む。
 唯一、登場しないIndrahをみんなが宝物のように回想する。彼女は、みんなを「カズコ」にしてくれたんだと。この劇のタイトルは「Indrah-カズコになろうよ」という。最初外国人が日本人に帰化する話?と思ったのだが、カズコは「家族」だった。Indrahが自分たちを家族のように結び付けてくれた、というのはどういうことだろう。それは、彼女が来る前は、みんな同じ福島の高校生でいながら、実はそれぞれがばらばらに重たいものを背負っていたということなのかもしれない。ひきこもりの男の子が言うように、自分のひきこもりが地震のせいなのか、そうではないのかは分からない。色んな感情と経験が混ざり合ったまま混沌と、目の前に立ちふさがる。東日本大震災は原発事故でもあって、放射能という目に見えないものや、それに付随して生じたもろもろの出来事が、人と人との関係を以前とは別のものにしてしまった、そういう話は、福島にいる友人たちからも少し聞いていた。加えて津波があった。ただでさえ多感な時期に、生徒たちが思うことは、ずっしりとした重みをもってそれぞれの心の中にあるのだと思う。
 そこにstrangerであったIndrahがやってきて、みんなは彼女を含めて"わたしたち"になっていった。その大きくゆるやかな関係の中で一人ひとりが、少しだけ自由に呼吸することができた、まるで家族といるみたいに自然に生きることができた、そういうことだろうか。
 そうだとしたら、この物語は大切なメッセージを持っている。同じように見える集団の中で、ぽつんと一人違う誰かがいるとき、そこが、その人が笑顔で居られる場所か、居られない場所かによって、その集団の雰囲気は大きく変わる。ある集団が、あなたがいてもいい、と他者を内側に包み込むとき、一見均質にみえる集団自体が「みな同じでなければならない」という呪縛を解いていく。すると、その中の一人ひとりが差異を差異として、生き生きと生きることができるようになる。Indrahがどんな少女だったか、観客には最後まで十分には伝わらない。けれど生徒たちにとって彼女がどれほど大切な存在だったかということは何度も伝えられる。いじめや不登校、発達障害の子が厄介者に見られてしまう今の日本の教室で、この誰かを包み込む態度や雰囲気こそが最も必要とされているのではないか、と思う。そういう理想的な人間同士のあり方が、目の前のステージで展開されているように思った。だって、自分の痛みや弱みや悩みをこうやって共有した上で、物語に組み込んで大勢の人の前で仲間たちと演じていく。メンバー全員(これがまた多い!)の間に信頼関係がなければ、簡単にはできないことだ。
 いくつもの独白があったけれど、誰かを支える人になりたい、というフレーズは何人かが口にしていて印象に残った。ほとんど泣きそうになって言っていた女の子もいた。ああ、この子はなにを見てきたのだろう。誰かに支えられる体験を通して強くそう思ったか、あるいは、うまく支えることができなかった誰かのことが忘れられずに、胸の中にずっとあるのだろうか。いずれにせよ、彼らの声は、日本のどこの若者の声よりも今、切実に澄んでいるのかもしれないと感じた。
 劇中では「私達にしかできないあのやり方で」と言って、みんなが想像の世界を創り出していた。ディズニーランドでは、5人くらいでシンデレラ城を形作っていて、女の子2人組みはチップとデ-ルだった。そして、あの「ミッキー」が登場するとみんながわーっと群がっていくのには笑ってしまった。 けれど、その後で涙が出そうになった。そう、ミッキーは人気者だったんだ。ミッキーの物まねで周囲に溶け込もうとした彼が、みんなに堂々と手を振っていた。
 夢は叶うと言って、今たとえば中学生の何割がそれを純粋に信じているだろう。小学生の娘たちが、流行っていると聞いているボカロ(初音ミクの進化系?)の歌詞を聴いていると、どん底から歌っているみたいな歌が多くて、これを小学生から聞いているのか、と少し心配になる。でも、ふたばのみんなが昨日見せてくれたのは、まぶしいくらいの夢の作り方。人が人を思う気持ちの強さ。誰かの本音を茶化さずに、私もだよって受け入れる優しさ。あんまり真っ直ぐなエネルギーをもらって、その余韻の中、いま書いている。
 福島と東京は違うし、家族と「カズコ」も違う。Indrahとみんなが違うように、あなたと私も違う。でもね、というその先を見せてくれる舞台だった。みんなにならって想像の翼を羽ばたかせるなら、そう、多分遠くない未来に、ふたばの校内にある「みらいシアター」のピアノで私は「あの日」を弾いてるんじゃないかな。
 そのときは三番まで歌いきって、音の消えていく瞬間にみんなと耳をすましてみたい。

今、誰が悲哀を抱えながらかっこ悪くも勇猛に吶喊しうるのだろう

今や吶喊は抹殺されかけている

自閉症の人も
子供たちも
叫んでいるけれど、それは良くても黙殺され
悪ければ舌打ちされる

この世から消えたいと思っている女も
誰かを殺してから死にたいと思っている男も
擦り切れた声で叫んでいるけれど
その吶喊は聞かれない

今や歌い手がそれを伝えるしかないのかもしれない

昨日演奏を手伝ったマヒトゥはステージで
長い咆哮を何度もマイクに乗せた
ステージ下手からちらっと見た
紅い龍のようだった

改めて魯迅の「吶喊」を読み返す

「わたし自身としては今はもう、痛切に言の必要を感じるわけでもないが、やはりまだあの頃の寂寞の悲哀を忘れることが出来ないのだろう、だから時としてはなお幾声か吶喊の声を上げて、あの寂寞の中に馳かけ廻る猛士を慰め、彼等をして思いのままに前進せしめたい。わたしの喊声は勇猛であり、悲哀であり、いやなところも可笑しいところもあるだろうが、そんなことをいちいち考えている暇はない。」(井上紅梅訳)

みないちいち考えてしか物を言わなくなった
喊声が消えるのは当然だ
「理性」と引き換えに感じることを麻痺させた
むしろ喜んで

今、誰が悲哀を抱えながらかっこ悪くも勇猛に吶喊しうるのだろう
それは本当は、叫ぶことを忘れた全ての人、であるはずなのだけれど


「小さな声」は庶民の「狭い経験」?

「あのころのパラオをさがして 日本統治下の南洋に生きた人々」の出版にあたって、少し前に文春で受けたインタビュー記事がヤフーニュースで流れた。ヤフーニュースのコメント欄は予想通り、保守的な意見が目立ったのだが、その中に、どうしても見過ごせないものが一つあった。その人は戦争をなくすために必要なのは「一般庶民の感情や狭い経験ではなく、事実に即してきちんと検証すること」、と主張していた。この人が言っている事実というのは、教科書や論文に載るような、政治の動きを追った「歴史的事実」なのだろうか。外交的に追い詰められたから、こういうことをやって、国内はこんな状況だったから、だから戦争になった。だから戦争をなかなかやめられなかった。ここをこうすれば戦争を回避できたかもしれない。そういう分析は実際、ある程度進んではいるだろう。アカデミックな議論を積み重ねることは大切だ。それが国民の間に正しく理解され、さらにそれによって、確かな力のある政治家を選び、戦争をきちんと回避できる状況を作れるか、と言えば、非常に心もとない気はするけれども。
 「事実に即してきちんと検証すること」。言っていることはそんなにおかしいことではない。戦争をなくしたい、という思いも共感できる。しかし、「一般庶民の感情や狭い経験ではなく」という言葉を使う人を私はどうしても信用できない。「一般庶民」というがどれほど多様であるか。その生業、状況、生い立ち、そして経験を異にし、それぞれに感じ方も違う、ということをこの人は感じとることができていない。言ってみれば、国というものが、たいていの政治家というものが、「一般庶民」の多様さを理解できていないのと同じように感じられていない。この人の物言いは、皮肉にも自分のものの見方がどれほど一面的で「狭い」のかを表してしまっているように思う。
 戦争の全貌というものは、死傷者数や攻撃の様子だけで伝わるものではない。その被害の多様さや細部に目を配らなければその本当の「意味」を知ることはできない。どれだけ多くの人が異なる形で殺され、傷つけられたのか。誰を失い、その後の人生をどのように生きたのか。その逆に、戦争で金儲けをし、何食わぬ顔で戦後を生きたのはどういう人たちなのか。一人の人間にとって戦争とは何だったのか。
 先日、広島で被爆した川本さんというおじいさんの話を娘と聞きに言った。川本さんは、原爆投下によって、一瞬にして孤児になったたくさんの子供たちのことを話してくれた。川本さんもまたそういう子供たちの一人だったのだ。しかし運よく養子にもらってくれる人が現れた。そうでない子供たちもたくさんいた。彼らは道端に捨てられた新聞紙に群がった。食べるためだ。口に入れられるやわらかいものはそれしかなかった。やがて餓死した子供たちからはすぐに衣服が奪われた。裸の子供たちの死体が転がっていた。川本さんと彼らの運命を分けたのは小さな偶然に過ぎない。その事実が川本さんの心に今なお重くのしかかっていることを感じた。
「広島の原爆資料館いったって、あの子たちのことは知ることはできないんです。だから私が伝えんと」
とおっしゃっていた。科学が万能でないように、学者が書いた論文や今知られている歴史が起きたことのすべてではない。忘れられた命、零れ落ちた声というのはいくらもあるのだ。それらをさえ庶民の「狭い経験」と片付け、そこから学ぶべきものはないとするのだとしたら、あまりに傲慢ではないだろうか。
 「戦争はよくない。しかし・・・」という声をよく聴く。さも現実的な意見のように響く。でも思うのだが、「しかし・・・」から後の部分は国や政治家が放っておいても言い始めたり考えたりすることなのだ。「未曽有の津波によって原発は甚大な被害を受けたかもしれない、しかし・・・」といって国が原発に未練を残しているのと同じである。一人の個人が考えなければいけないことは別にある。せっかく、個として生まれついているのに、国単位の思考にひきずられてしまう。勿体ないことだと思う。
 国というのは、社会というのは、一人の人間からできている。そして一人の小さな声は決して「とるに足らないもの」ではない。一人の祈りは、往々にして、国や政治家が考えていることより、よほどまっとうで、美しいのだから。

大岐の浜のこと

高知の友人から土佐清水市の大岐の浜のメガソーラー建設についての問題を教えてもらった。

メガソーラーは大規模太陽光発電。再生可能エネルギー。

悪いイメージがある人はあんまりいない。

けれど、一軒家の屋根に数枚ついているソーラーとちがって

メガソーラーは、規模が大きい。

それをどういう場所に作るか、ということによって

周囲への影響が大きいらしいということがちょっと調べてみると分かってきた。


大岐の浜は、世界的にみても生物の種類が豊かな透明度の高い

貴重な浜のようだけれど、メガソーラー設置で何が問題になってくるのか。

問題は、浜の近くの山を削って、その土砂が雨のたび流れ込むということらしい。

でもそれってそんなに深刻なことになるのだろうか。


実は土佐清水市の緑ヶ丘という場所ではすでに設置が始まっており

近くの清水港が真っ茶色になっている写真がこのサイトに上がっている。


土佐清水市議の岡本詠さんに現在の清水港について問い合わせてみると

水の茶色っぽさはひいてきたものの、

海藻に泥がつき魚が減ってしまったとか

港のいけすの鯖も5回も全滅しているという話で

除草剤を使っているだろうとのこと。


メガと名のつくものの裏には大きなお金が動くし

太陽光発電と掲げれば、大きな反対も起きない。

むしろ歓迎ムードが社会全体にある。


けれど、そういう勢いの裏で本来一番慎重になされなくてはならない

建設地の調査や、建設後の環境への影響を調べることがかなり

おざなりになっている感がある。

多分、日本のあちこちでそういうことが起きているんじゃないだろうか。

(この間の鬼怒川の氾濫でもメガソーラー設置で

自然堤防を切り崩したことも関係していると報道されていた)


設置者の多くは、その土地に暮らす人々ではない。

その土地に生業を持ち、自然を相手に暮らす人々ではない。

本来はその影響をもろに受ける人たちの声を拾ってから

建設されるべきだと思うのだが、

すでに緑ヶ丘のような状況が生まれてきてしまっている以上

大岐の浜の自然を守るために、設置で何が起きていくのかという

情報を広く伝えていかなくてはいけないと思う。


土佐清水市で取材させてもらった元東電社員の木村俊雄さんに電話してみると

すでにこの問題でも動いていて経産省へのアプローチなどを始めているとのことだった。


現在は東電を辞め自給自足の生活を営んでいる木村さんについて

私は、《最も進んだ現代人》だと思っているのだけれど、

彼の住む久百々という地名はクモモと読み、シマント(四万十)と共に

古いアイヌ語の響き、縄文の響きを今に伝えているのだという。


いつまでもそういう響きの似合う土地であってほしいし、

そういう自然を愛する人の暮らす土地であってほしい。


高知の血をわずかにひく者として、

遠く東京から、そう願っています。


⚫️大岐のメガソーラーについてのネット署名はこちら

追記

土佐清水市議の岡本詠さんは安保法制に反対して土佐清水の自民党から除名された気骨ある市議さんのようです。少数者となる覚悟、これから多くの人に求められていく時代になる気がします。

せめて鳳仙花の種を一粒

 前回小林エリカさんと松井一平さんと山鹿泰治展を見に行った時も御苑だったのだけれど、今回は、一平さんと作るアルバムの打ち合わせ。私がそのあと太宗寺と正受院の奪衣婆を見たくてやっぱり御苑になった。一平さんは入ったカレー屋で、レコーディングのたびにノートを一冊作るのが好きなんだ、とまっさらなページをぱらぱらと見せてくれた。こんなに書くことあるのかしら、とストローで酸味のきいたラッシーを吸いながら思う。
 店を出ると、一平さんがこれこないだの、とZinsterの夜のライブの出演料の入った封筒から半分くれた。だいぶ遅いけど、忘れていたので棚ぼた感はある。「ちょっと下の本屋寄りたい」と一平さんが入った店は、かなり濃い品ぞろえで、手に取ってみたい本がいくつもあった。ずっと買おうと思っていた加藤直樹「九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響」と、血盆経や巫女の文字が並ぶ章立てに惹かれて宮田登「ケガレの民族誌」を、もらったばかりの出演料で買った。
「九月、東京の路上で」は「反「反韓・反中」」をかかげて仕掛けた書店もあったりして結構売れているということを新聞で読み、買いたいと思っていた。数か月前にも、ここならあるんじゃないか、という隣町のちょっと品ぞろえがいい本屋にいって店員さんに聞いてみたのだが、その存在すら知らないようでがっかり帰ってきたということがあった。

 私がこの地震にまつわる虐殺の話を母から聞いたのは小学校3年か4年の頃だ。とてつもなく驚いた。そして意味が分からなかった。その時その不可解ゆえにとても重要に思えたその情報を、一番仲の良かった親友に休み時間に教室のはじっこで教えたことを覚えている。ふざけまわる男子たちで騒がしい教室の中で「え、なんで」と驚いた親友の声色を今でも思い出せる。母は「朝鮮を植民地にしたり、安く働かせたり、日本人の中には朝鮮人に恨まれてるんじゃないかっていう不安があったんでしょう」と言った。けれど、それがなぜ虐殺になるのか、当時の私にはよくわからなかった。どうしてそういう不条理が起きるのか、という疑問はだんだんと膨らみ、大正や昭和、戦争の時代への興味に連なっていった。
 高校生になると、新聞に載っている近現代史や文学関係の講演会を調べては出かけていくようになった。一方で中2の時作ったミュージカルサークルもひっぱっていたから、どっちにしろちょっと変わった、完全にゴーイングマイウェイな中高時代だった。高2の秋、荒川のあたりをめぐる朝鮮人虐殺のフィールドワークに参加した。外務省職員も密かに参加していたが、全部で15人ほどで、ここに死体の山があった、川に死体が流れていたなど、当時を知る方の話を聞きながら歩いた。最後に荒川河川敷に到着した。ここを掘ると今でも骨が出てきたりする、とのことだった。傍らに赤い鳳仙花が植えられていた。追悼した人々が植えたものだ。鳳仙花は朝鮮の人々にとって特別な花です、と説明されたと思う。この花が朝鮮で有名なのは、洪蘭波作曲、金享俊作詞の「鳳仙花」という曲があるためだ。金は、日本支配下にあった朝鮮の無念を暗にこの花に託して詩にした。歌はソプラノ歌手金天愛が歌ったことで人々に広まり、ついには朝鮮総督府から禁止令が出たほどだったという。

「では次、オウム監視委員です、二名から四名。人数が多い方がおひとりの負担が減ります。どなたかいらっしゃいませんか」
小学校1年生になった長女のクラスの保護者会後に行われたクラスの役員・係決めでのことだ。誰も手を挙げない。
私の住む町には元オウムの信者が暮らすマンションがある。警官が常に立ち、監視にあたっているが、住民も自ら防犯のためにこれに加わろう、という地域団結の意識がこの小学校各クラスでの「オウム係」の設置につながっている。小学校だけではない。地域の団地の役員もこの監視に加わっており、知り合いのギタリストAさんもかつてこの団地役員になったとき、オウム監視に加わったという。学校から配られた通学路マップには、オウムのマンションが明示されそこに面した道は×印が描かれて子供が通ってはいけないことになっている。広場のバザーで品物を買えば、あとから売り上げはオウム対策資金になるとわかったり、定期的に商店街をオウム反対のデモの列が歩いていたりもする。
「あの、監視ってやることは何ですか」
オウム係への立候補者が出ないなか、一人のお母さんが質問した。公安まがいの仕事内容に違和感を持つのも無理はない。
「簡単です。マンション前に立って、ノートに、部屋を出入りした人の様子や衣服をメモするだけです」
それはもはや完全に警察の仕事のような気がするのだが、30分なり60分なりの分担で、この地域の人たちがメモ取りつつ365日オウムを見つめている。その網の目のような監視ぶりに驚かざるを得なかった。
オウムは世界を震撼させた「凶悪宗教テロ組織」だから、こうした地域の動きに疑問を感じる人間というのは実は少数派だ。むしろ歓迎する声も多いかもしれない。そのあたりはオウム事件後、オウムの信者側の声を拾い続けるという重要な仕事をした森達也さんが、「なぜあのオウムを」となかなか人々の理解を得られなかったことにも表れている。しかし、私は疑問というよりも、こうした街の空気にある種の気味悪さを感じていた。

「Kで朝鮮人が13人、Kの村人によって殺された日です(関東大震災)。9月1日から3日K神社のシイの木にお参りにいきましょう」
駅近くKハウジングという在日の元歌手川西杏がやっている不動産屋の前にこういう看板が立っているのを見つけたのは、多分3、4年前だ。関東大震災の朝鮮人虐殺といえば、東京東部のイメージが強かっただけに、東京西部のしかも自分の住んでいる町で、同じような惨事が起きていると知った衝撃は大きかった。そして、こうした虐殺を各地で引き起こした普通の市井の人々から成る自警団が、流言飛語と不安の中で、自分たちの街を自分たちで守ろうという意識からできたことを考えるにつれて、その心性がどこかこの町の今に引きつがれているような気がしてならなかった。在日朝鮮人というコミュニティ内の「他者」が訴えなければ、虐殺の惨事があったことすらずっと知らなかっただろう。虐殺は、「ひどい朝鮮人の手から、自分たちの街を、家族を、自分たちで守ろう」という意識が暴走して起こった。だからであろうか、街に「加害」の痕跡がない。川西がお参りに行こうと看板に書いたK神社にさえ虐殺を伝える案内も慰霊碑もないのである。川西の書いた看板だけが、あの虐殺とこの街とをかろうじて繋いでいる。そのことも私の心を重たくした。

 最近地獄のことを調べていたので道端のお地蔵さんのことが気になっていた。親より先に死んだ子供など、立場が弱い者を真っ先に助けてくれるお地蔵さんは、広い信仰を集めてきたとわかると、がぜん親近感が湧いた。家から一分の四辻に建つお地蔵さんは、最近赤いべべを新調してもらって、ひときわ目を引く。「ごちそうさん?」と聞き間違える三女に「違うよ、地獄で助けてくれるスーパーヒーローだよ」というとおかしいのか、ケタケタ笑う。
 ある日地域報に目を通していると片隅に、このお地蔵さんのことが触れられていた。そして、そこは昔大橋場という橋がかけられていたということを知った。あまり目立たないが、お地蔵さんの脇には黒い円柱の碑が立っており、これがその大橋場の碑らしい。川が流れていたのか。そのことも意外だった。お地蔵さんの脇の道は旧甲州街道、昔の甲州街道だ。それを挟んで今はゲーティッドマンションがそびえたつ。3年ほど前にそれが立つまでは、緑の多い公団の古い戸建て住宅が並んでいた。その東脇に細い小道がある。今はマンション建設と共に舗装されてしまったが、2006年はまだ砂利の残る緑道のような道だった。この道で『Quick Japan』の取材時、金丸雅代さんがとってくれた写真は『Quick Japan』67号に載っている。長澤まさみ表紙のこの号は、森山裕之編集長が仕掛けた歴史に残る「政治特集」で、小林よしのり×森達也の対談や大貫妙子さんの六ヶ所村に絡めたインタビューもある。ちなみに北沢夏音さんが書いてくれた私の記事はタイトルが「乞食になる覚悟」で、今、元路上生活者のダンスグループ、ソケリッサのメンバーと絡んでいることを考えると面白い。
 話がそれたが、このお地蔵さんと、緑道と、かつて流れていた川、かかっていた橋について、私は「九月、東京の路上で」にすべて書かれていることに気づいた。

  暴行の現場となったのは、甲州街道を横切るK川にかけられた、「大橋場」と呼ばれた石橋であった。K川は現在は暗渠となって  いる。バス停「K下宿」のすぐ左わきである。そのななめ右向かいに、「武州K村大橋場の跡」という碑が立っている。

喫茶店でこの本を読んでいた私は、ここまで読んで、ものすごい寒気に襲われ、とても冷房の店内にはいつづけられずに、炎天下の中に飛びだした。そのまま自転車に乗って線路向こうの図書館まで飛ばすが、図書館に着くまで鳥肌が消えない。バス停の左わきといえば、例の緑道なのだ。あの緑道がK川だった、そして虐殺はその川にかかる大橋場で起きた。とりあえず、図書館でこのあたりのことを調べなくては、と思った。郷土資料コーナーを端からみていくと、「大橋場の跡 石柱碑建立記念の栞」という一九八七年に作られた薄い冊子を見つけた。そこには、橋の歴史についての記述が続き、最後の方に虐殺についてページが割かれていた。編者の下山氏が古老の証言をまとめたものだ。事実関係を要約すると以下のようだ。

K村は三か所に検問が置かれ、上町中町下町と自警団が分かれた。検問のあい言葉は山と言えば川、川と言えば山だった。(これにつかえたり、言葉に詰まった者が、よそ者あるいは朝鮮人の疑いありと睨まれたのだろう)二日夜、「京王」にやとわれて、府中から笹塚の現場まで移動中のトラックに12名の朝鮮人が乗っていた。上町中町の検問を飛ばしたトラックは大橋場で進めなくなり、村人にきりつけられた。責任者の団長は被害者をかばい、やめてくれと大声で叫んだという。最終的には世話人20名が調べられ、12人の被害者に対し、12人の加害者がでた。K村を含むT村連合議会は連合村全体の不幸として、つかまった12人が戻ったとき、12本の椎の木をK神社に植えた。町の医師は身命をかけて介護したという。関係文書はK小学校の書庫に納めたとされるが、でてこない。

 家に帰って、「九月、東京の路上で」の続きを読むと、著者の加藤氏も、私が見つけた「大橋場の跡」の冊子を入手し、紹介していた。その中で、加藤氏は慰霊のために植えられたかと思われた椎の木が、12人の加害者が戻った時にねぎらいの意味で植えられたものだったことについて「何とも苦い真相」と書いている。
 川西杏は13本の椎の木と書いていた。数が違う。川西は13人が殺されたと書いたが、本当はいったい何人の朝鮮人が死んでいるんだろう。12本の椎の木には、被害者の慰霊の意味は込められていないのだろうか。手当てした医師はどんな人物だったのだろう、ご子息が後を継いでいないだろうか。いくつもの疑問を抱えて、私は「大橋場の跡」の冊子の巻末に書かれた編者下山照夫氏の住所あてに手紙を書き始めた。
 翌日電話を頂き、その翌日に下山氏のお宅に訪問することになった。下山氏の名前は、区報に載っている歴史講座の講師として郷土史家という肩書と共に知っていた。87歳の現在もあちこちで講師として呼ばれて、現役で活躍している。お宅に行ってみれば、よく前を通っていたご近所の大きなお家だった。「まあ、よく熱心に、書いたもの見つけていただいて」とブルーマウンテンを入れてくださって話は始まった。
「橋は石橋があって、甲州街道で一番しっかりした橋だった。それが震災のときおちて、震災後の残務整理で朝鮮の人が重労働で駆り出されて、12人乗ってる小さいトラックが落っこちた。周りの人たちが言葉遣いがおかしいと、朝鮮人だーとなって法政大学の英文学の教授福原さんて人が散弾銃ばーんとやっちゃった。それでみんながーっとなって。実際に亡くなったのは2人。12人死んだという事書いちゃった人もいるけど、間違い。あと10人は手厚い介護受けて、その後はわかりませんが」
下山氏によれば、13人説はそういう噂を徳富蘆花がそのまま「みみずのたわごと」に書いたものがある。これを元に間違った記事が書かれたことが原因で今なお残っているという。死んだ2人以外は回復したはずで、介護した医師は祖父江太郎という。漢方医だったが、結核で結婚して3か月で死んだそうだ。震災当時はまだ若かったのだろう。一方加害者は下山氏の親戚にあたり、一高に入り他家に養子に入っていたが、そこが破産して戻ってきていたという。当時の一高に入れるのだから優等生だ。血気盛んなエリート青年が、流言飛語を信じて疑わず、無抵抗の朝鮮人労働者を殺した。
「アイゴーってほとんど裸で懇願してるのを切るわけですからね。剣道、棒術みんなやってますからね。私がいれば体張ってやめさせたけどね。おじさんは体は張らなかったみたい」
泣いてやめてくれ、といった団長は村の消防団長で、やはり下山氏の親戚の「おじさん」、並木波次郎だった。「私がいれば」と言った下山氏の好々爺然とした瞳を見つめる。女子供はみな北に避難していたという。日本刀や散弾銃を振りかざす殺気立った男達の中でやめてくれ、という事がどれほど勇気のいることなのか、私には想像できない。止めたくても止められなかった、それも分かる。でも、と思う。ほんの一言、一人でも二人でもいいから相手を立ち止まらせるような牽制の言葉を吐くことはできなかったのか。「こいつらもし無罪だったら、お前人殺しだ、家族が辛いぞ」でも「とりあえず証拠の一つみつけてからやっても遅くまい」でも何でもいい。狂気に燃える男たちの頭を冷やすことはできなかっただろうか。やめてくれ、という人があと何人いたら、惨事は避けられたのだろう。90年前の夜、自宅のすぐ傍の橋にうずまいていた男たちの狂乱の熱を感じようとするも、あまりに遠い。
 冊子の書かれた1987年、下山さんを中心に大橋場の跡の碑が建てられた。黒光りする円柱の碑には出資者の名前が刻まれている。
「あの擬宝珠の欄干にご供養もいれてね。それからあの本を書きました」
当時は12人被害者が出たら自動的に12人加害者を出さなければならなかったという。それゆえ叩いた程度の人も連行され、一か月ほど拘留された。そうしたこともあって12人をねぎらうというニュアンスも強まったと思われる。下山さんや多くの関係者にとっては、この大橋場の碑の建設が、虐殺の慰霊も兼ねた意味を持ち、それで「終わったこと」になっているのだろう。しかし、碑には特に虐殺の記述はなく外側からそれを知るすべはない。特に若い世代がこのことを知る術はほとんどない。加藤氏でさえ、この資料を「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」から提供されてようやく出会っているのである。この重要な虐殺の事実を書いた「大橋場の跡」の冊子タイトルには「朝鮮」も「虐殺」も出てこないために、図書館でいくら検索してみても引っかかっらない。歴史としては半ば封印されたとさえ言える。

 先日女優Mさん出演のCM音楽を作った。9月オンエアに先駆けてyoutubeで視聴が始まっている。視聴開始早々、悪評価がついているのが気になった。人を不快にさせる要素はほとんどない涼やかなCMだ。Mさんについて調べると、お母さんが韓国の方で、ネトウヨの間では「チョン」「不美人」などとめちゃくちゃに叩かれていた。こうした視聴者が増えてきているのだろう。Mさんの視聴動画には、すでに視聴者が評価できないようにしているものも多くあった。韓国系とみれば悪評価を付ける視聴者に荒らされるのを防ぐためだ。美しいと感じるその素直な感覚さえ、偏見というつまらないものに譲り渡してしまう悲しい人々が増えている。
 
「反韓反中」の空気が若い層にも広まりつつある今こそ、過去の事実は改めておさえておかなければならない。臭いものに蓋ではやがて自壊が始まる。私は一人思う。この街で今更朝鮮人虐殺の慰霊碑など建てられないのであれば、あの大橋場の碑の横に、史跡の一つとして小さな看板でも立てられないものかと。かつて震災の後、ここで無為な血が流されたことを伝え、平和をいのる小さなものでいい。それも無理ならば、私はせめて鳳仙花の種を一粒、お地蔵様の横に植えたい。鳳仙花の花言葉は「私にふれないで」というものが有名だが、「急ぎすぎた解決」という意味もあるそうだ。夏から秋、赤い花咲くころ、見る人が見ればわかる、それで良いわけはないのだけれど、何もないよりはずっといい。

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