SAHO TERAO / 寺尾紗穂

寺尾紗穂オフィシャルウェブサイト

Blog

大岐の浜のこと

高知の友人から土佐清水市の大岐の浜のメガソーラー建設についての問題を教えてもらった。

メガソーラーは大規模太陽光発電。再生可能エネルギー。

悪いイメージがある人はあんまりいない。

けれど、一軒家の屋根に数枚ついているソーラーとちがって

メガソーラーは、規模が大きい。

それをどういう場所に作るか、ということによって

周囲への影響が大きいらしいということがちょっと調べてみると分かってきた。


大岐の浜は、世界的にみても生物の種類が豊かな透明度の高い

貴重な浜のようだけれど、メガソーラー設置で何が問題になってくるのか。

問題は、浜の近くの山を削って、その土砂が雨のたび流れ込むということらしい。

でもそれってそんなに深刻なことになるのだろうか。


実は土佐清水市の緑ヶ丘という場所ではすでに設置が始まっており

近くの清水港が真っ茶色になっている写真がこのサイトに上がっている。


土佐清水市議の岡本詠さんに現在の清水港について問い合わせてみると

水の茶色っぽさはひいてきたものの、

海藻に泥がつき魚が減ってしまったとか

港のいけすの鯖も5回も全滅しているという話で

除草剤を使っているだろうとのこと。


メガと名のつくものの裏には大きなお金が動くし

太陽光発電と掲げれば、大きな反対も起きない。

むしろ歓迎ムードが社会全体にある。


けれど、そういう勢いの裏で本来一番慎重になされなくてはならない

建設地の調査や、建設後の環境への影響を調べることがかなり

おざなりになっている感がある。

多分、日本のあちこちでそういうことが起きているんじゃないだろうか。

(この間の鬼怒川の氾濫でもメガソーラー設置で

自然堤防を切り崩したことも関係していると報道されていた)


設置者の多くは、その土地に暮らす人々ではない。

その土地に生業を持ち、自然を相手に暮らす人々ではない。

本来はその影響をもろに受ける人たちの声を拾ってから

建設されるべきだと思うのだが、

すでに緑ヶ丘のような状況が生まれてきてしまっている以上

大岐の浜の自然を守るために、設置で何が起きていくのかという

情報を広く伝えていかなくてはいけないと思う。


土佐清水市で取材させてもらった元東電社員の木村俊雄さんに電話してみると

すでにこの問題でも動いていて経産省へのアプローチなどを始めているとのことだった。


現在は東電を辞め自給自足の生活を営んでいる木村さんについて

私は、《最も進んだ現代人》だと思っているのだけれど、

彼の住む久百々という地名はクモモと読み、シマント(四万十)と共に

古いアイヌ語の響き、縄文の響きを今に伝えているのだという。


いつまでもそういう響きの似合う土地であってほしいし、

そういう自然を愛する人の暮らす土地であってほしい。


高知の血をわずかにひく者として、

遠く東京から、そう願っています。


⚫️大岐のメガソーラーについてのネット署名はこちら

追記

土佐清水市議の岡本詠さんは安保法制に反対して土佐清水の自民党から除名された気骨ある市議さんのようです。少数者となる覚悟、これから多くの人に求められていく時代になる気がします。

せめて鳳仙花の種を一粒

 前回小林エリカさんと松井一平さんと山鹿泰治展を見に行った時も御苑だったのだけれど、今回は、一平さんと作るアルバムの打ち合わせ。私がそのあと太宗寺と正受院の奪衣婆を見たくてやっぱり御苑になった。一平さんは入ったカレー屋で、レコーディングのたびにノートを一冊作るのが好きなんだ、とまっさらなページをぱらぱらと見せてくれた。こんなに書くことあるのかしら、とストローで酸味のきいたラッシーを吸いながら思う。
 店を出ると、一平さんがこれこないだの、とZinsterの夜のライブの出演料の入った封筒から半分くれた。だいぶ遅いけど、忘れていたので棚ぼた感はある。「ちょっと下の本屋寄りたい」と一平さんが入った店は、かなり濃い品ぞろえで、手に取ってみたい本がいくつもあった。ずっと買おうと思っていた加藤直樹「九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響」と、血盆経や巫女の文字が並ぶ章立てに惹かれて宮田登「ケガレの民族誌」を、もらったばかりの出演料で買った。
「九月、東京の路上で」は「反「反韓・反中」」をかかげて仕掛けた書店もあったりして結構売れているということを新聞で読み、買いたいと思っていた。数か月前にも、ここならあるんじゃないか、という隣町のちょっと品ぞろえがいい本屋にいって店員さんに聞いてみたのだが、その存在すら知らないようでがっかり帰ってきたということがあった。

 私がこの地震にまつわる虐殺の話を母から聞いたのは小学校3年か4年の頃だ。とてつもなく驚いた。そして意味が分からなかった。その時その不可解ゆえにとても重要に思えたその情報を、一番仲の良かった親友に休み時間に教室のはじっこで教えたことを覚えている。ふざけまわる男子たちで騒がしい教室の中で「え、なんで」と驚いた親友の声色を今でも思い出せる。母は「朝鮮を植民地にしたり、安く働かせたり、日本人の中には朝鮮人に恨まれてるんじゃないかっていう不安があったんでしょう」と言った。けれど、それがなぜ虐殺になるのか、当時の私にはよくわからなかった。どうしてそういう不条理が起きるのか、という疑問はだんだんと膨らみ、大正や昭和、戦争の時代への興味に連なっていった。
 高校生になると、新聞に載っている近現代史や文学関係の講演会を調べては出かけていくようになった。一方で中2の時作ったミュージカルサークルもひっぱっていたから、どっちにしろちょっと変わった、完全にゴーイングマイウェイな中高時代だった。高2の秋、荒川のあたりをめぐる朝鮮人虐殺のフィールドワークに参加した。外務省職員も密かに参加していたが、全部で15人ほどで、ここに死体の山があった、川に死体が流れていたなど、当時を知る方の話を聞きながら歩いた。最後に荒川河川敷に到着した。ここを掘ると今でも骨が出てきたりする、とのことだった。傍らに赤い鳳仙花が植えられていた。追悼した人々が植えたものだ。鳳仙花は朝鮮の人々にとって特別な花です、と説明されたと思う。この花が朝鮮で有名なのは、洪蘭波作曲、金享俊作詞の「鳳仙花」という曲があるためだ。金は、日本支配下にあった朝鮮の無念を暗にこの花に託して詩にした。歌はソプラノ歌手金天愛が歌ったことで人々に広まり、ついには朝鮮総督府から禁止令が出たほどだったという。

「では次、オウム監視委員です、二名から四名。人数が多い方がおひとりの負担が減ります。どなたかいらっしゃいませんか」
小学校1年生になった長女のクラスの保護者会後に行われたクラスの役員・係決めでのことだ。誰も手を挙げない。
私の住む町には元オウムの信者が暮らすマンションがある。警官が常に立ち、監視にあたっているが、住民も自ら防犯のためにこれに加わろう、という地域団結の意識がこの小学校各クラスでの「オウム係」の設置につながっている。小学校だけではない。地域の団地の役員もこの監視に加わっており、知り合いのギタリストAさんもかつてこの団地役員になったとき、オウム監視に加わったという。学校から配られた通学路マップには、オウムのマンションが明示されそこに面した道は×印が描かれて子供が通ってはいけないことになっている。広場のバザーで品物を買えば、あとから売り上げはオウム対策資金になるとわかったり、定期的に商店街をオウム反対のデモの列が歩いていたりもする。
「あの、監視ってやることは何ですか」
オウム係への立候補者が出ないなか、一人のお母さんが質問した。公安まがいの仕事内容に違和感を持つのも無理はない。
「簡単です。マンション前に立って、ノートに、部屋を出入りした人の様子や衣服をメモするだけです」
それはもはや完全に警察の仕事のような気がするのだが、30分なり60分なりの分担で、この地域の人たちがメモ取りつつ365日オウムを見つめている。その網の目のような監視ぶりに驚かざるを得なかった。
オウムは世界を震撼させた「凶悪宗教テロ組織」だから、こうした地域の動きに疑問を感じる人間というのは実は少数派だ。むしろ歓迎する声も多いかもしれない。そのあたりはオウム事件後、オウムの信者側の声を拾い続けるという重要な仕事をした森達也さんが、「なぜあのオウムを」となかなか人々の理解を得られなかったことにも表れている。しかし、私は疑問というよりも、こうした街の空気にある種の気味悪さを感じていた。

「Kで朝鮮人が13人、Kの村人によって殺された日です(関東大震災)。9月1日から3日K神社のシイの木にお参りにいきましょう」
駅近くKハウジングという在日の元歌手川西杏がやっている不動産屋の前にこういう看板が立っているのを見つけたのは、多分3、4年前だ。関東大震災の朝鮮人虐殺といえば、東京東部のイメージが強かっただけに、東京西部のしかも自分の住んでいる町で、同じような惨事が起きていると知った衝撃は大きかった。そして、こうした虐殺を各地で引き起こした普通の市井の人々から成る自警団が、流言飛語と不安の中で、自分たちの街を自分たちで守ろうという意識からできたことを考えるにつれて、その心性がどこかこの町の今に引きつがれているような気がしてならなかった。在日朝鮮人というコミュニティ内の「他者」が訴えなければ、虐殺の惨事があったことすらずっと知らなかっただろう。虐殺は、「ひどい朝鮮人の手から、自分たちの街を、家族を、自分たちで守ろう」という意識が暴走して起こった。だからであろうか、街に「加害」の痕跡がない。川西がお参りに行こうと看板に書いたK神社にさえ虐殺を伝える案内も慰霊碑もないのである。川西の書いた看板だけが、あの虐殺とこの街とをかろうじて繋いでいる。そのことも私の心を重たくした。

 最近地獄のことを調べていたので道端のお地蔵さんのことが気になっていた。親より先に死んだ子供など、立場が弱い者を真っ先に助けてくれるお地蔵さんは、広い信仰を集めてきたとわかると、がぜん親近感が湧いた。家から一分の四辻に建つお地蔵さんは、最近赤いべべを新調してもらって、ひときわ目を引く。「ごちそうさん?」と聞き間違える三女に「違うよ、地獄で助けてくれるスーパーヒーローだよ」というとおかしいのか、ケタケタ笑う。
 ある日地域報に目を通していると片隅に、このお地蔵さんのことが触れられていた。そして、そこは昔大橋場という橋がかけられていたということを知った。あまり目立たないが、お地蔵さんの脇には黒い円柱の碑が立っており、これがその大橋場の碑らしい。川が流れていたのか。そのことも意外だった。お地蔵さんの脇の道は旧甲州街道、昔の甲州街道だ。それを挟んで今はゲーティッドマンションがそびえたつ。3年ほど前にそれが立つまでは、緑の多い公団の古い戸建て住宅が並んでいた。その東脇に細い小道がある。今はマンション建設と共に舗装されてしまったが、2006年はまだ砂利の残る緑道のような道だった。この道で『Quick Japan』の取材時、金丸雅代さんがとってくれた写真は『Quick Japan』67号に載っている。長澤まさみ表紙のこの号は、森山裕之編集長が仕掛けた歴史に残る「政治特集」で、小林よしのり×森達也の対談や大貫妙子さんの六ヶ所村に絡めたインタビューもある。ちなみに北沢夏音さんが書いてくれた私の記事はタイトルが「乞食になる覚悟」で、今、元路上生活者のダンスグループ、ソケリッサのメンバーと絡んでいることを考えると面白い。
 話がそれたが、このお地蔵さんと、緑道と、かつて流れていた川、かかっていた橋について、私は「九月、東京の路上で」にすべて書かれていることに気づいた。

  暴行の現場となったのは、甲州街道を横切るK川にかけられた、「大橋場」と呼ばれた石橋であった。K川は現在は暗渠となって  いる。バス停「K下宿」のすぐ左わきである。そのななめ右向かいに、「武州K村大橋場の跡」という碑が立っている。

喫茶店でこの本を読んでいた私は、ここまで読んで、ものすごい寒気に襲われ、とても冷房の店内にはいつづけられずに、炎天下の中に飛びだした。そのまま自転車に乗って線路向こうの図書館まで飛ばすが、図書館に着くまで鳥肌が消えない。バス停の左わきといえば、例の緑道なのだ。あの緑道がK川だった、そして虐殺はその川にかかる大橋場で起きた。とりあえず、図書館でこのあたりのことを調べなくては、と思った。郷土資料コーナーを端からみていくと、「大橋場の跡 石柱碑建立記念の栞」という一九八七年に作られた薄い冊子を見つけた。そこには、橋の歴史についての記述が続き、最後の方に虐殺についてページが割かれていた。編者の下山氏が古老の証言をまとめたものだ。事実関係を要約すると以下のようだ。

K村は三か所に検問が置かれ、上町中町下町と自警団が分かれた。検問のあい言葉は山と言えば川、川と言えば山だった。(これにつかえたり、言葉に詰まった者が、よそ者あるいは朝鮮人の疑いありと睨まれたのだろう)二日夜、「京王」にやとわれて、府中から笹塚の現場まで移動中のトラックに12名の朝鮮人が乗っていた。上町中町の検問を飛ばしたトラックは大橋場で進めなくなり、村人にきりつけられた。責任者の団長は被害者をかばい、やめてくれと大声で叫んだという。最終的には世話人20名が調べられ、12人の被害者に対し、12人の加害者がでた。K村を含むT村連合議会は連合村全体の不幸として、つかまった12人が戻ったとき、12本の椎の木をK神社に植えた。町の医師は身命をかけて介護したという。関係文書はK小学校の書庫に納めたとされるが、でてこない。

 家に帰って、「九月、東京の路上で」の続きを読むと、著者の加藤氏も、私が見つけた「大橋場の跡」の冊子を入手し、紹介していた。その中で、加藤氏は慰霊のために植えられたかと思われた椎の木が、12人の加害者が戻った時にねぎらいの意味で植えられたものだったことについて「何とも苦い真相」と書いている。
 川西杏は13本の椎の木と書いていた。数が違う。川西は13人が殺されたと書いたが、本当はいったい何人の朝鮮人が死んでいるんだろう。12本の椎の木には、被害者の慰霊の意味は込められていないのだろうか。手当てした医師はどんな人物だったのだろう、ご子息が後を継いでいないだろうか。いくつもの疑問を抱えて、私は「大橋場の跡」の冊子の巻末に書かれた編者下山照夫氏の住所あてに手紙を書き始めた。
 翌日電話を頂き、その翌日に下山氏のお宅に訪問することになった。下山氏の名前は、区報に載っている歴史講座の講師として郷土史家という肩書と共に知っていた。87歳の現在もあちこちで講師として呼ばれて、現役で活躍している。お宅に行ってみれば、よく前を通っていたご近所の大きなお家だった。「まあ、よく熱心に、書いたもの見つけていただいて」とブルーマウンテンを入れてくださって話は始まった。
「橋は石橋があって、甲州街道で一番しっかりした橋だった。それが震災のときおちて、震災後の残務整理で朝鮮の人が重労働で駆り出されて、12人乗ってる小さいトラックが落っこちた。周りの人たちが言葉遣いがおかしいと、朝鮮人だーとなって法政大学の英文学の教授福原さんて人が散弾銃ばーんとやっちゃった。それでみんながーっとなって。実際に亡くなったのは2人。12人死んだという事書いちゃった人もいるけど、間違い。あと10人は手厚い介護受けて、その後はわかりませんが」
下山氏によれば、13人説はそういう噂を徳富蘆花がそのまま「みみずのたわごと」に書いたものがある。これを元に間違った記事が書かれたことが原因で今なお残っているという。死んだ2人以外は回復したはずで、介護した医師は祖父江太郎という。漢方医だったが、結核で結婚して3か月で死んだそうだ。震災当時はまだ若かったのだろう。一方加害者は下山氏の親戚にあたり、一高に入り他家に養子に入っていたが、そこが破産して戻ってきていたという。当時の一高に入れるのだから優等生だ。血気盛んなエリート青年が、流言飛語を信じて疑わず、無抵抗の朝鮮人労働者を殺した。
「アイゴーってほとんど裸で懇願してるのを切るわけですからね。剣道、棒術みんなやってますからね。私がいれば体張ってやめさせたけどね。おじさんは体は張らなかったみたい」
泣いてやめてくれ、といった団長は村の消防団長で、やはり下山氏の親戚の「おじさん」、並木波次郎だった。「私がいれば」と言った下山氏の好々爺然とした瞳を見つめる。女子供はみな北に避難していたという。日本刀や散弾銃を振りかざす殺気立った男達の中でやめてくれ、という事がどれほど勇気のいることなのか、私には想像できない。止めたくても止められなかった、それも分かる。でも、と思う。ほんの一言、一人でも二人でもいいから相手を立ち止まらせるような牽制の言葉を吐くことはできなかったのか。「こいつらもし無罪だったら、お前人殺しだ、家族が辛いぞ」でも「とりあえず証拠の一つみつけてからやっても遅くまい」でも何でもいい。狂気に燃える男たちの頭を冷やすことはできなかっただろうか。やめてくれ、という人があと何人いたら、惨事は避けられたのだろう。90年前の夜、自宅のすぐ傍の橋にうずまいていた男たちの狂乱の熱を感じようとするも、あまりに遠い。
 冊子の書かれた1987年、下山さんを中心に大橋場の跡の碑が建てられた。黒光りする円柱の碑には出資者の名前が刻まれている。
「あの擬宝珠の欄干にご供養もいれてね。それからあの本を書きました」
当時は12人被害者が出たら自動的に12人加害者を出さなければならなかったという。それゆえ叩いた程度の人も連行され、一か月ほど拘留された。そうしたこともあって12人をねぎらうというニュアンスも強まったと思われる。下山さんや多くの関係者にとっては、この大橋場の碑の建設が、虐殺の慰霊も兼ねた意味を持ち、それで「終わったこと」になっているのだろう。しかし、碑には特に虐殺の記述はなく外側からそれを知るすべはない。特に若い世代がこのことを知る術はほとんどない。加藤氏でさえ、この資料を「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」から提供されてようやく出会っているのである。この重要な虐殺の事実を書いた「大橋場の跡」の冊子タイトルには「朝鮮」も「虐殺」も出てこないために、図書館でいくら検索してみても引っかかっらない。歴史としては半ば封印されたとさえ言える。

 先日女優Mさん出演のCM音楽を作った。9月オンエアに先駆けてyoutubeで視聴が始まっている。視聴開始早々、悪評価がついているのが気になった。人を不快にさせる要素はほとんどない涼やかなCMだ。Mさんについて調べると、お母さんが韓国の方で、ネトウヨの間では「チョン」「不美人」などとめちゃくちゃに叩かれていた。こうした視聴者が増えてきているのだろう。Mさんの視聴動画には、すでに視聴者が評価できないようにしているものも多くあった。韓国系とみれば悪評価を付ける視聴者に荒らされるのを防ぐためだ。美しいと感じるその素直な感覚さえ、偏見というつまらないものに譲り渡してしまう悲しい人々が増えている。
 
「反韓反中」の空気が若い層にも広まりつつある今こそ、過去の事実は改めておさえておかなければならない。臭いものに蓋ではやがて自壊が始まる。私は一人思う。この街で今更朝鮮人虐殺の慰霊碑など建てられないのであれば、あの大橋場の碑の横に、史跡の一つとして小さな看板でも立てられないものかと。かつて震災の後、ここで無為な血が流されたことを伝え、平和をいのる小さなものでいい。それも無理ならば、私はせめて鳳仙花の種を一粒、お地蔵様の横に植えたい。鳳仙花の花言葉は「私にふれないで」というものが有名だが、「急ぎすぎた解決」という意味もあるそうだ。夏から秋、赤い花咲くころ、見る人が見ればわかる、それで良いわけはないのだけれど、何もないよりはずっといい。

Zinesterの夜

Zinesterの夜のことはなんとなく書き残さなければならないと思っていた。桜台poolで開かれたzine愛好家たちが集う音楽イベントに松井一平と参加したのだ。しかし私は桜台もzineも知らなかった。それで、当日会場に向かうのに、西武新宿線の遠い乗り場まで歩いてから、切符売り場の路線図を見上げて唖然としたし、ついてからも主催のモモさんにzineの説明をしてもらってようやく了解したのだった。なるほど、会場にはたくさんのフリーペーパーのようなものが置かれており、その中に私と一平さんの「おきば」も置かれているのだった。ハングルのものも目立つ。大学院のとき少しかじったので発音だけはできるハングルを見つめて、小さく発声してみる。中尾勘二インタビューという冊子もあって、しばらく立ち読みする。ライブ会場は地下二階、すでに中盤をすぎているが、とりあえずライブの空間に入ってみる。SJQという西から来たバンドの最中であった。室内の四方をお客さんが立って囲み、真ん中で演奏している。面白いことをやっていたが、室内は熱く、だんだん演奏が佳境に入ると薬物の酔いみたいになって、倒れそうになった。治りきらない風邪で今夜も発熱していた体は持ちこたえることができず、会場を出る。近くに珈琲家族という喫茶店があって、そこに入ろうとしたが、いや待てよと所持金の少なさを思い出して、200円で一杯飲めるドトールがないかなとうろうろする。こんなことを書くと、最近新譜で「珈琲」を出したくせに、けしからんと言われるのであろうか。私は、はっきりいって、コーヒーへのこだわりというものはほとんどない。好みとしては、酸味のあるものはいやで、マンデリンのような苦いものの方が好きという傾向があるが、ブレンドをだされれば黙ってそれを飲むし、アメリカンみたいに薄いのだって、ポーカーフェイスで飲み干せるだろう。新譜「珈琲」を出したかったのは、うちのレコード会社の社長で、コーヒー大好きなのも彼である。彼は中国茶も大好きで、訪ねていくと会議室で自ら湯の温度を計って入れてくれたりするのである。おそらく飲み物全般好きなのであろう。私は飲み物に対して食べ物ほどの情熱を持てない。食事の時も水分がなくてもまったく構わない。飲み物がないと食事ができない、という人はよくいるが、お前はよく咀嚼して唾液をだしているのか、と問い詰めたくなる。そのようなわけで、私は、200円のドトール珈琲を探してさまよっていた。すると松井一平に出くわして、彼もマックで奥さんのアキさんと珈琲飲んでいるところだという。そこにお邪魔することにして、アキさんとしばし話をする。
「最近はかまいたちはどうですか」
「少しあるけどあんなひどいのはもうない」
あんなひどいのとは、つくばライブに彼らと行った日に、アキさんのほぼ全身に生じたかまいたちのことだ。小さい頃からよくなっていた、というかまいたちの話を興味深くつくばまでの車中で聞いたのだった。一平さんが、朝おきてどうしたのほほの傷、ブルース・リーみたいだね、と言うと、テレビのニュースから、今日はブルース・リーの命日です、との声が流れてきたのだという。私は不思議なことが大好きなので、この二人の話を聞いているといつまでも飽きないのだ。

会場に戻ってみると、プカプカブライアンズの最中だった。テニスコーツ+ベースのグループだ。さやさんがドラムをやっていた。良い感じに力の抜けたドラムかと思うと、次の曲では男勝りな感じでバンバン進む。変化が魅力的だった。ふと、二人の大学時代のサークル室に迷い込んだようなそんな気分。私たちの出番はあっというまにやってきて、ライブもあっという間に終わった。今回は私が真正面を向いて歌って、一平さんの絵が映るスクリーンを一切見なかったので、最後の一音を弾き終えたとき、最後の絵は見られるかな、と振り向いてみた。すると、もうそこには絵はなく、一平さんの足元に投げ散らかされた絵の残骸が落ちているばかりだった。化学反応の花火は終わって、私の背後に確かに幻は生まれていたのだ。瞬間的にその残骸をいちいち見なくてもよい気がした。お客さんがまさに鏡のように、反応を返してくれた。私はお客さんの目の奥の静かな興奮を見つめていれば良いのだ、と思った。
「あの絵は捨てちゃうんでしょうか」
よかったです!と駆け寄ってきた二人の女の人のうち、一人が、一平さんの描いたまま床に捨てられている絵を見ながら私に尋ねた。
「捨てちゃうんじゃないかな、くださいって言ったらもらえるかもしれない」
一平さんの友達らしきその二人はzinesterらしく、それぞれ手製の冊子を一部ずつくれた。その一冊に「LIARS」と銘打たれていて、思わずページをめくる。「アンインテンディッド・ライアーズ=思わず嘘をついてしまう人」とある。蒼井優似のその発行人の顔を見つめる。「思わず嘘をついてしまう人?」
「あ、はい」
「私もです」
ほっとしたように蒼井優の顔がほころんだ。

この夜接点のあった人たちはどこか不思議となつかしく、そのことが今文章を書いていることにつながっているが、一人目は私が2年前の9月原発デモでアルタ前で歌ったとき、アルタ前に到着したときに話しかけてきてくれた人だ。DJもやっていて、自らは田んぼの音を田舎に録音しにいって、CDにしているという。一枚いただいてしまった。カエルや虫も都会では聞かれない種類の声が録音でき、その種類を聞き分ける耳ももっているという。
「それはすごいですね。私カラスの声を聞き分けられるようになりたいのですが・・独学されたんですか」
「小さい頃からそういう知識があって」
「希少なカエルの声なんか集めておいたら、絶滅してしまった場合なんか将来貴重な資料になりますね」
「まあそうですね、というか自分としては音楽を作っているつもりなんです」
CDを家で聞いてみると、その言葉には合点がいった。砂利を踏む靴音から始まり、川のせせらぎの音が強くなったかと思うと、カエルの声に近づく。その場で音を一斉に体感するのともまた違う、不思議な臨場感と緊張感。この日、ワンマンライブのチラシを一応持ってきてはいたが、落ち着いて配る場所もなさそうだったので、カバンにしまいこんであったものを一枚だしてきて差し上げた。

二人目は、私が10月に開催しているビッグイシュー応援イベント「りんりんふぇす」に過去三回も来てくれているという人だった。その人の目は、私のよく知っていた二人の男性の目によく似ていた。一人は2002年の上海で出会って一緒に旅をしたシャオピン。もう一人は名古屋在住だった、ファンの秋色さん。突然亡くなって骨壷になって私のライブを訪れた人。どちらも忘れがたい人だ。
「あの、あなたの目に似ている人、過去に2回出会っているんです」
一瞬困惑した二重の瞳が、なつかしく笑ってくれた。

もうそろそろ、帰らなければと思っているところに、さやさんが現れた。握手。
「ああ、寺尾さんに会うと元気になって、ワーーーってなる」
ワーーーっていうのは多分いい意味でとっていいんだろう。自分はどちらかというと、A型に見られるし、どちらかっていうと部屋もきちと整理整頓されてるって勝手に思い込まれるタイプなので、今のさやさんのような言葉をかけられることはほとんどないのだ。どちらかというとあんまり人のことは見ていないし、世話好きなタイプでもない。人を聖母のように包み込むスケールもないし、懸命に励ましたりするタイプでもない。だからさやさんの言葉が不思議だった。私は、初夏のクアトロのテニスコーツと作ったライブのことを思い出していた。それからラストで入ってもらったソケリッサのことも思い出した。ソケリッサと一緒に踊ってくれたテニスコーツ。幸せな時間。

帰りの電車で「LIARS」を読んだ。柳田国男は、子供の嘘は叱るなと書いていたと思う。それよりは頭の中をはみだしたイマジネーションにつきあってやれと。そんなことを思い出した。そして、虚構の持つ、人をいやす力についても「LIARS」を読んで考えた。電車を降りて階段を下りる間、私は「人でなし」とか「うそつき」とか罵られたこと、何回あったっけと思い出していた。改札にJRに乗り継ぐ切符をいれたら、切符の出口からポーンと切符が走り幅跳びしたみたいに飛び出した。熱でフラフラなのに足取りは早く、この元気はさやさんの言葉にもらったのかな、と思って、内から力があふれていくのを静かに感じていた。ふと気づくとタイツの足首には、昼間子供達とやったかくれんぼの時触れたのだろう枯れ草が、かくれんぼの続きみたいにじっとくっついている。

 かくれんぼは不思議だ。最初はみつかりたくないけれど、やがてみつけてほしくなる。そして見つかったら終わり、だ。もういいかい、まあだだよ、もういいかい、もういいよ。私たちは生まれてから死ぬまで、死神と長いかくれんぼをしているのかもしれない。その長さに心細くなったとき、zinsterの不思議な夜を思い出そう。一緒に幻を生み出せる相棒、LIARS、田んぼの音、もう会うこともない男たち、そしてひとつの言葉がどれほどの力をくれるか、ということについて、この先何度も思い返すことだろう。タイツについた枯れ草と一緒に。寂しい夜は、きっと。

FM横浜に行った日のこと

空腹をガマンできる人を羨ましくも思うし、恨めしくも思う。
空腹をガマンできる人はすべての人が「ある程度」は
空腹をガマンできると思ってそれをできない人にも強いる傾向がある。
そんなとき、我慢出来ない自分は、絶望的な気持ちで、
倒れそうになる身体を支えているしかない。
そうして、その人の空腹に耐えうる能力を力なく恨むしか術がない。

状況が許すときは、率直に空腹を訴える。
まあ大抵そのパターンだ。

去年知り合った松井一平と作った「おきば」について
音楽雑誌のインタビューを受けていた時も
松井さんは私との出会いについて
「開口一番、「おなかがすいたからどこか食べに行きませんか」と言われて
面食らった」と回想していた。
こちらはそんなことすっかり忘れていた。
あの日は、新世界での柴田聡子ちゃんとのライブのリハのあと
DJぷりぷりの自転車を借りて、
ヒカリエでやっているTAKAIYAMAの展示をみに
六本木から渋谷まで疾走してきたのだ。
お腹もへるというものだ。 

先日りんりんふぇすの宣伝にFMよこはまの
北村年子さんの番組に出演させてもらった時も
私は、桜木町についた時には、すっかりお腹が空いてしまっていた。
しかし時間はすでに待ち合わせに10分ほど遅れている。
私は、眼の前にある立食いそば屋を睨みながら、
日記帳をひっぱりだして、メモした番号を眺めながら
公衆電話にテレホンカードを入れた。
そんな古臭いもの、とお思いだろうが、私は未だにテレホンカードが手放せない。
携帯を携帯しそびれたりなくしたりすることが多すぎるからだ。
この時は携帯を前日の福岡のホテルに置いてきていた。
「もしもし、北村さんですか。あのもう駅には着いたんですが、わたしお腹が減ってしまったので・・あと15分くらい遅れてもいいですか」
会ったこともない私の図々しい申し出に対し、北村さんは
一緒のゲストのソケリッサもまだ誰も来ていないし一応
来てもらったほうが安心だから、何か買ってきてくださいと
最もなことをおっしゃったので、私はそばをすすりたい気持ちを抑えて
蕎麦屋で売っていたいなりずしを2つ買って現場へと向かった。

打ち合わせ場所にはすでにソケリッサのメンバーが集まっていた。
北村さんは大層美しい方だった。しかも襲撃事件などを耳にする度に
私もずっと考えていた小中学生や高校生にホームレスのことを考えてもらいたい、
ということを実践されている方だった。
「ホームレスの問題授業づくり全国ネット」の呼びかけ人が北村さんだったのだ。
私は特にソケリッサを全国の学校で公演できるようにならないものか、とか
ビッグイシューの販売員さんが教室で話せる機会が増えないものかとか
と考えていたのだが、北村さんたちは、DVDなども作成し、教師が実際に
生徒に教えられる教材を作り、実際に教室に野宿者の人を招くという活動も
されているようだった。北村さんたちは著書も昨年だしており、
頂いたその本を読むと、ホームレス差別の問題は、いじめの構造と同じで
大多数が傍観者である、という内容が印象的だった。

収録も無事終わり、ソケリッサの4人と北村さんたちと駅に向かう。
ランドマークから駅まで続く渡り廊下のような通路は風が強くふいている。
Kさんが「寺尾さんの歌をきいているとキャロル・キングを思い出すんですよ」という。Iさんが「まーたはじまったよ」と横でにやりとする。
Kさんはイギリスに10年以上暮らしていたので英語に馴染みがある。
「そういえば、寺尾さん、大貫さんのトリビュートアレ絶対買いますよ!」とYさん。
大貫さんはよく聞いてたんですよ、というYさんは私のライブにもよく来てくれる。
それで、急にラストの曲だけ踊りで入ってもらったりということもこれまで何度かしてきた仲良しだ。今日のラジオの収録の中で、Yさんが職を失ったのが耳の病気がきっかけだったこと、自分が販売者になる前はビッグイシューの読者でもあったことを知った。
「今日はじめて色々Yさんのことわかったな」
「そうですね、今まで全然話さなかったから」
困ったときはお互い様という言葉がある。
ビッグイシューにもそんな精神が流れている。
Yさんのこれまでは正に、それを体現してきたかのようだ。
支える側が支えられる側になることもあれば
支えられていた側が支える側になることもある。
ビッグイシューを広めることは、
多くの人が傍観者でいたがるこの社会を、ほんの少し人間味のある
ましな場所にしていくことだと思う。

帰りの電車は、私とKさんだけ湘南新宿ラインで新宿にでることになった。
Kさんの家は新宿中央公園だ。
ホームで電車を待っている時、Kさんは「キャロル・キング・ミュージック」というアルバムについて、一曲ずつ解説をしてくれた。そして一番最後に
「どうだろうか、私、これを日本語訳してみたのだけど、寺尾さんよかったらどれか歌ってみてくれないだろうか」
と控えめに言った。
好きに言葉は変えてもらっていいとのことだったので
OKした。電車では座って、イギリスでの生活やその前の話なんかを聞いた。
Kさんはそもそも、パチンコの景品などになるタバコ雑貨を扱う営業をしていたそうだ。給料はよかったが、働き詰めが嫌になって、イギリスへ渡る。
向こうでは、日本の雑貨店で働いたり、
スペイン人の相棒とイタリア女をナンパしたり
フリーメイソンの儀式の手配師をしたりしていたそうだ。
かなり謎な人である。

Kさんは背が高くおっとりして話すのもゆっくりだ。
「まあ、私の人生すべて逃げてきただけなんですよ。そもそもは家でえばっていた兄から逃げ、仕事から逃げ、イギリスも骨を埋めるとこじゃないと逃げ・・」
Kさんの声がのんびり響く。車両がここちよくゆれる。
どこにでも落ちているような人生と、
ハードだけどオンリーワンの人生とどっちが幸せだろう。
「まあいろんなもんから逃げてきただけだから、最後はね、この体使いきって終わりたいと思ってるんですよ」
逃げてきた話からいきなりきりっとした口調になって、すこしどきりとする。
Kさんは65歳。販売の立ち仕事は楽ではない。
「だからソケリッサの練習ね、もう始まるまでは販売のあとだからつかれたなーっと思っていやいやはじめるんだけど、始まっちゃうとね、全然。疲れを感じないの」
体力というのは100あって100使うとなくなるものじゃないのだ。
それは気力と密接な関わりがあって、
100使ってしまっても、それに向き合えばあと50も100も湧き出てくるような何か、というのがその人にとっての生きがい、といえるのだろうと思う。

公園で手製の家に横たわってキャロル・キングを日本語訳し、日々販売し、ソケリッサの練習をし、人生の終着点を見つめるKさん。
オンリーワンの人生の後半生、素敵としかいいようがない。

ソケリッサもみられるりんりんふぇす、13日ですよ!
http://singwithyourneighbors2013.jimdo.com/

仙台・2つの震災・犀の角

 仙台ライブは大雪だった。山形や福島から向ってくれたお客さんが来られなくなって会場は少しゆったりしていたり、タクシー乗り場の長蛇の列に並んだために芯から冷えきった上、リハ無しでの本番となったけれども、会場のスタッフの方は温かなコーヒーを用意していてくださっていたし、地方だというのに綺麗に鳴るグランドピアノはあったし、PAさんも本番の音を慎重に微調整していって下さった。お客さんの中には、長年ファンでいてくれた方の他にも、学校でチラシをもらって、という女子高生や、美容院でチラシをみて音楽は普段聞かないけど気になってという人、あるいは図書館にフライヤーがおいてあってぴんときて、という人など様々だった。みんな、この日のライブをセッティングしてくれた企画者須藤さんのおかげだ。須藤さんは最初少し年配の方かと勝手に思っていたら、私より2つ上の同世代の人だった。そして、何より私が今回嬉しかったのは、私がビッグイシューを応援するりんりんふぇすなどの活動を見て、自らビッグイシュー仙台支部と連絡を取り、会場での販売をセッティングしてくれたことだ。仙台に着いて、リハまでの時間は観光に使ってもよかったし、最初は女川原発まで足を伸ばしてみようか、いや、やっぱり松島まで行ってみるべきか、とも考えた。津波のやってきた海岸に立ってみたい、という気持ちもあった。それでも雪によって麻痺し始めそうな交通のことも心配だったし、何となく須藤さんご夫妻とお昼をご一緒したいと思い、お誘いした。普段は、外で食べるといっても一人で食べることの方が多いくらいだけれども、須藤さんとは話をしてみたかった。昼食後に空くだろう会場入りまでの午後の時間は、市内の大きな図書館に行って資料でも探そう、と思った。

 「アーティストを地元に呼ぶのはChocolat&Akitoに続いて二回目」という須藤さんはおとなしそうな感じの男性で、フライヤーを制作して下さった奥さんもおっとりとした愛らしい方だった。フジロックで出会ったというお二人は、趣味を同じくしている。これからもこのように、力あわせて地元へアーティストを招いていかれるのだなと思うと、何だかとてもうらやましくなった。私たちは、時折おとずれる沈黙の「間」に、少しはにかみながら、音楽の話や本の話、それからビッグイシューの話なんかをした。須藤さんは私がどうしてりんりんふぇすのような活動をしているのか、またなぜ「評伝 川島芳子」のような著書を出しているのか、気になっているようだった。そこで話は山谷でのSさんとの出会いや、戦前や戦争の時代とアジアへの興味、さらにさかのぼって、小学校時代に知って大きな衝撃を受けた関東大震災の時の朝鮮人虐殺にも及んだ。その時、須藤さんが、話をついだ。

「自分も震災の時の朝鮮人虐殺の話はずっと知らなかったです。それがある本を読んで、やはりその震災で捕まって、のちに恩赦が出たけれど、自分はそもそも罪を犯していないといって獄中で自殺した女性のことを知ってとてもショックを受けたんです」

須藤さんが「震災」と言ったので一瞬、二年前のことかとうろたえた。90年前の「震災」の話を私たちはしていた。9月1日、全国の学校で防災訓練はしても、その混乱の中で起こったことを、学校はほとんど教えない。だから多くの人にとって「関東大震災」は大正時代の自然災害、でしかない。本当に学ぶべきことは曖昧にされて後世に伝わらない。

昼には雪が上がると言われていた空は、時折うすく太陽の輪郭をさらしたが、粉雪は休みなく降り続けた。私たちは会話が途切れると窓から雪と空を眺めた。その時奥さんが口を開いた。「そういえば3・11の時も地震のあと、こんな天気でした」

 夫妻と別れた後、10年くらい前に作られたというメディアテークという図書館へ向かった。「ぜ~んぶガラス張りだよ、あ、トイレはちゃんと隠してあるから大丈夫よ」という愉快な運転手さんと別れて、図書館のある階にエスカレーターで上った。郷土史のコーナーを覗くと新宿の中村屋の相馬黒光の伝記があって、彼女も仙台の生まれだったことを知る。それをじっくり読みたい誘惑にも駆られたが、今調べている、南洋へ移住した沖縄移民についての論文があったのでそれを読むことにする。窓際の席に座る。タクシーのおじさんの言うとおり、壁一面が大きな窓だ。街路樹を背景に粉雪が舞っている。東京が湿気のある重たい雪が「降る」のだとしたら、今降っている粉雪は「舞う」という表現がしっくりくる。踏み心地も別物だ。軽い雪は時折吹く風に舞い上げられて、ふわふわと自由で美しい。活字を追うのに疲れたら、大きなカンバスに描かれる景色を眺めてぼんやりすればいい、仙台には素敵な図書館があるものだ。

 ライブの翌朝は雪もほとんど上がっていた。その代わり、試験会場へのバスを待つ受験生の列が立体歩道橋にあふれんばかりに続いていて、通りすがりのおばさんが「この歩道橋落ちやしないかしら」と心配するほどだった。タクシー乗り場もまた昨晩のように行列ができていた。大雪に受験生。イレギュラーな仙台満喫だ。出発までそれほど時間はないから、バスにすぐ乗れて、すぐ戻ってこれるくらいのところ。選んだ輪王寺はバスで15分。伊達家にゆかりのある曹洞宗のこのお寺は、山門から境内への階段までの道が長く、小さな山に続く林を背景にしたお庭が素晴らしい。雪景色であることも手伝って、短い訪問ながらとてもよい時間を過ごすことができた(積雪が思いのほか深く、お寺の方に長靴をお借りした。まあたらしい雪の上には猫の足跡があるばかりだった)。

帰りの新幹線に乗り込んで、鶴見俊輔『思い出袋』(岩波新書)を読み始めた。これは前日ライブ前に須藤さんが下さった本だ。昼食後別れた後に買いに行って下さったらしい。つまりこれが、須藤さんに関東大震災の混乱の中で逮捕され、獄中自殺した女性を教えた本だった。女の名は金子文子。朝鮮人朴烈の恋人だった女性。22歳だった。須藤さんの受けたという衝撃の大きさに反して、この本における金子文子の記述は新書見開き1頁とちょっとであって、私はむしろそのことが須藤さんの丁寧な読み方を反映しているようで興味深く感じられた。来る時も吹雪いていた福島のあたりは、帰りもまだまだ雪が降っているようだった。私は、須藤さんの中で単なる歴史の一点であった関東大震災が、強烈な事件をよびおこした現場として鮮やかに塗り替えられたその驚きについて、本を手に考えていた。しかし、そこが福島であったために、意識は再び2年前の大震災へと移った。いかにも寒々とした福島の雪景色が新幹線の窓をすぎてゆく。ふと、地震のあとに噴出してくるのは、時代の膿のようなものなのだろうか、と思う。

 『思い出袋』は鶴見さんが『図書』という雑誌に書いた連載をまとめたもので、文学、哲学、歴史、映画、そして人物についての短いエッセイがいくつも入っている。その中に「犀のように歩め」という一文がある。

「昔読んだインド人アナンダ・クムラズワミの仏陀伝では、「汝自身に対して灯火となれ」 と釈迦は説いている。自分自身が灯火となって、自分の行く道を照らすように、と言う。これは自分の角をしるべとしてひとり歩む犀の姿を思わせる。」                                                                                

  大学の一般教養の授業で選択した仏教の授業で、色々細かいことは忘れてしまったけれど振り返って一つずしりと自分の中に残っている言葉が、「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉だった。角は歩かない、歩くのは犀だ。でも、この言葉を聞くと、犀の視線と自分の視線とが重なる。犀が歩き始めると、視界の中に、位置を変えず、微かに一定に揺れ続ける一本の角が見える。これを自らの灯火と鶴見さんはとらえ、その灯火をたよりに自ら歩き、自らの答えを出す人間を犀に例える。

 「明治に入って国家が西欧文明を学校制度を通して日本中にひろげてから、思想はかえって平たくなった。この環境では犀を見つけることはさらにむずかしい。編集者は犀をみつけることが仕事のはずだが、実際にはその仕事の内実は、うわさの運搬である。」

 編集者に限らないと思う。何かをアウトプットする時、周りの評価や世間の常識の中でものを考え、そこからはみ出さない範疇で選択したり、答えをだすことに私たちはすっかり慣れている。その方が楽だからだ。まるでその術をうまく知っている人が、頭がよく、仕事の出来る人のようにも錯覚する。編集者として本や雑誌を作ることがそうなら、イベンターとしてイベントを生み出すことも同じだ。うわさに耳をそばだて、安全牌にうまく頼れれば、「成功」はなかば保証される。けれど鶴見さんは、うわさではなく、自らの嗅覚で発掘する、そういう姿勢を編集者に求めている。今回の須藤さんによる招聘とイベントの成功を通じて感じたのは、須藤さんが犀の角ような灯火を持っている人ではないかということだ。正直に言って、私の地方での動員力などまだまだこころもとないものだ。そしてそのあたりのことはいまやツイッターのフォロアー数を見れば大体予想できてしまうことでもある。フジロックの常連であれば、もう少し動員のできるアーティストを知っているだろうし、好きであろうし、その中から選ぶこともできたと思う。けれども須藤さんは私に十分過ぎる額を提示し、そのために自ら宣伝に図書館や美容院や音楽高校をまわってくださった。フェイスブックやツイッターでの宣伝はもちろんだけども加えてそこまで動きまわってくれたのだ。その気持ちが嬉しく、同時にその行動に敬意を覚える。すべての人にできることではない。私が犀である、ということではないし、それは問題ではない。こいつが犀だ、と信じて容易でない道を突き進むとき、犀を探そうとする人間もまた角を持って歩む一頭の犀と言える。自ら信じるものを信じとおす力、不可能を可能にする力。そこにはいつも人の心を動かす何かがあふれているのだと思う。

1