SAHO TERAO / 寺尾紗穂

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Uchiakeの記 vol.3

Uchiakeの記 vol.3

●1人目 シンガーソングライターにならなかった看護師
●2人目 申し込み時の悩みが解決した映画プロデューサー
●3人目 集団の中にいることが苦手な納棺師
●4人目 台湾人の彼に会えない新社会人
●5人目 自閉症の兄を持つ男性
●6人目 漆器職人の亡父を持つDJ
●7人目 お菓子作りの好きな栄養士(手製クッキーを持参!)

●自閉症の兄を持つ男性 タナカさん
「打ち上げに参加できるならって、思って。ぱっと申し込んだら、整理番号1番で。であと、よく読んでみたらですね、あ、こういうもんなのか、って思ってですね(笑)う-ん、なんか打ち明けることあるかなって思いながら」」
基本的に内面を人前でさらさない性格だという彼は、それが何に起因するのか考え始めたという。そして、自閉症の二つ上の兄の話を始めた。
「二つ上なんですけれども、小学校であいつの弟だ、とか言われるわけですよ。本当は肉親だし、一人しかいない兄弟なので守ってあげなきゃいけないのに、恥ずかしいわけですよ。認めるのも嫌で。もちろん一緒になっていじめることはないんですけども、知らんぷりしたり、っていうようなことが結構あって」
小学校の頃、思い返すと上の学年に「マキコ」と言われるそういうお姉さんが、いたなと思い出す。わたしの通っていた学校では「けやき学級」と言ってそこに通う生徒が学年に二人くらいはいた気がする。マキコさんは多分何等かの障害があって、いつもニコニコして、言葉の発音は独特だったが、元気な感じの人だった。マキコさんとは通学路が同じだったが、いじったときの反応を面白がる男子たちからからかわれていた印象がある。ちょっかいを出されて「逃げろー」という男子たちを、マキコさんは声をあげて追いかけていたような気もする。その人に兄弟姉妹がいたかなんて、そしてどういう気持ちで学校に通っていたかなんて、考えたこともなかった。
「中学にあがって、私中学高校と寮生活だったんですね、で、あんまり会うことがなくなってほっとしたんです。兄弟の話とか出ても、適当に「あぁ...」みたいににごしたり。で、ある日ですね、私が高1のとき、彼が高3くらいのときに、やっぱりそういう子なのでいじめを受けるわけですよ。家から電話があって、大変なことになったと。集団で暴行を受けててですね、膵臓が破裂して」
思いがけない展開に、一同息をのむ。ふと、先日活動再開をしたコーネリアスの小山田さんのことも思い出す。障がい者をいじめる。それは、一部の人間の性質に組み込まれている自然なことなんだろうか。それとも加害者側に何らかのストレスがかかっているという不自然な状況が引き起こすものなんだろうか。ふざけ半分で、あるいはストレス解消のために、高3というほぼ大人と同じ体格の男性が、膵臓を破裂させられる。想像しただけで痛ましい。
「病院に担ぎ込まれて、もう死ぬかもしれない、っていうことになって、え?と思って。病院に行ったら、本当に、もうこれだめだ...って。でもなんか実感わかないんです。で、また寮に帰って、子供の時のこと、いろんなこと思い返して...そこで初めて、懺悔して謝罪するわけですよ。ほんとに申し訳なかったって。ほんとに号泣しました」
タナカさんは「子供の時のこと」を思い出して初めて、お兄さんという存在が自分にとってどんなものだったのかを気付いた。そのことに私はどうしても心を揺さぶられてしまった。タナカさんにとってはある時期まで兄の存在が日常であり自然であったと思う。一緒にふざけたり、笑ったり、何をしたら怒るのか、何かをきちんと伝えるにはどうしたらいいか。一緒に育った兄弟として、お兄さんとのコミュニケーションの取り方をきっと十二分に知っていたはずだ。しかし、小学校という子供の社会で生きるようになったタナカさんは、そこでの兄がどのように笑われ、奇異な視線にさらされるのかを知る。子どもは子どもの社会の中で育つ。小山田さんが通っていた和光でも、早くからインクルーシブ教育の精神をかかげていたのだろうが、教師の適切な指導や行き届いた目がなければ暴行が起きていたわけで、その時期、適切なインクルーシブ教育がされていた学校は日本でもわずかだったに違いない。悲しいけれど、大人の適切な声かけや指導がなければ、子どもたちの中にも異物を排除したり差別する傾向が表れる。だから、タナカさんは自閉症の兄を持ちながら、子ども社会の多数派に紛れようとしたのだ。自分はみんなと同じ側の人間だと、兄とは違うと思いたかった。誰でも、多数派の影響を受けて成長することを考えれば、自然の流れだっただろうと思う。子育てをしているとよくわかる。親の育て方がすべてのように言われるが、子どもというのは時代の空気や、教室の空気を敏感に察知し、そこと矛盾が起きないように自らを少しずつ変えながら成長している。怖い先生に当たれば委縮するし、周りを気にしたり、「いい子」が求められる時代の空気と無縁ではいられない。親がどれだけのびのびと育てたつもりでも、いつしか「先生に何か言うなんてやめて、お母さん」と過剰に憶病なことを言うようになっていたりするのだ。教室という社会が誰も排除しない、助け合えるような空気に満ちていたら理想的だが、それはよほど優れた先生が指導した場合だ、と色々なケースを思い返しながら思う。学校によっては大阪の「大空小学校」のように校長が一大改革を行い、学校全体にそのような空気を育んだ例もあるが、まだまだ一部にとどまっている。
 いずれにせよ、お兄さんと過ごした小さいころの時間を思いだしたタナカさんは、そこで号泣する。その頃の自分がどれだけ、まっさらな心で兄と関われていたのか、自分が小学校に入り、そうした心からどれだけ離れてしまっていたのか、タナカさんは気付けたのだ。そしてその時に、お兄さんと自分を切り離すことで、多数派の中でなんとか自己を守って来た自分が実は抱えていたしんどさにも出会ったのかもしれない。
 この国で大人になるということは、周りの目を気にする、ということとほぼ同義である。政府が「屋外でマスクは人ごみ以外もういりません」と発表して、それを半数の人が適切と受け止めたアンケート結果を見たが、街ですれ違う人でマスクを外している人はほとんどいない。私くらいだ。すごい国だと改めて思う。マスクが好き、基礎疾患のある家族がいる、といった人が屋外マスクを継続することは理解できるが、うっとうしいと思ってもとりあえず周りに合わせるという人も多い。小さいころから自分を抑え、周りに合わせることに慣れさせられている。それが美点として現れることもあるだろうが、それによって多方面で生じている問題も沢山ある。周りに合わせられないことなど本当は大したことではなくて逃げ道を探しながら逃げていいのだけれど、「合わせるべき」という価値観で生きてしまえば、自分の生き辛さもぐんとあがってしまうし、歴史的にみたら「とりあえず周りに合わせる」人々は、国の政治が危険な全体主義に傾いても、当然のことながらそちらに合わせてしまう。私がPTAに馴染めないのは、そういうことも関係がある。PTAはその時代の「常識」を映す。戦前の植民地で、あるいは戦後何年かたった国内でさえ、PTAは時に、差別的で見るに堪えない要求や決定をしている。今は、もっとマシでしょう、という声が聞こえてきそうだが、私は集団の感覚を信用できない。
 もしも自閉症のお兄さんが暴行を受けて膵臓を破られなかったら、タナカさんは今も微妙な距離感でお兄さんを捉えるしかなかったのかもしれない。誰かに兄弟のことを聞かれても言葉を濁したまま、このuchiakeでお兄さんのことを話すこともなかったのかもしれない。高校1年生のとき、事件をきっかけにお兄さんを幼いころの自分の視点から捉えなおせた、その経験はとても大きいものに思える。幼い日の自分の感覚を思い出すとき、人は自由の感覚を思い出す。周囲の価値観に縛られず、感じるままに振る舞うこと。そこにこそ人間の善性が息づいているのだと、タナカさんの話を聞きながら改めて思った。
「寺尾さんは、音楽はサウンド指向で、曲も素晴らしいから聞いているんですが、歌詞も非常に共感するものがあって惹かれています。本も全部読んだんですけど、弱者というか小さな声みたいなものを描いている。兄は今ちゃんと普通に生活しています。体が栄養を十分に摂れなくなってしまって、いつも痩せていますが」
出会いがなければ、社会の中で理不尽な状況に耐えなければいけない人たちがいることに、いつまでも気づかない人もいる。社会にはなかなか届かないいくつもの声で溢れている、ということ。そんな中、「私たち」だけではなく「どこかの彼ら」にも思いを寄せるということ。「気づかない」人にはいつまでも手に入れることのできない想像力が、マイノリティの当事者に寄り添う人にはたしかに与えられるのだ、と思った。


●漆器職人の亡父を持つDJ アキノさん
「自分も今の方のように、つい申し込んでしまって笑。後から「言うことあるかな」と考えました。気楽に弱音を吐けるのは、最近腰痛で悩んでることくらいなんですが。ただ趣旨を見て思ったのは、同じ寺尾さんの曲を聞いて来た、同じ聴衆として、みんなの声を聴いてみたいなというのがありまして。それすごく今日、果たせた。自分の好きなことを仕事にできなかったというのも、それぞれの気持ちがやっぱりあるなあと。自分も普通の仕事をしていますが、どうしてもこだわりを持ってやってしまう」
そう話し始めたアキノさんは、どことなく山が似合うような、物静かな佇まいの人だ。自らの仕事の仕方の話から、10年前に亡くなったお父さんの話が始まった。
「父親が漆器の職人をしていまして。自分も手伝いをしていたんです。ほんっとに昔ながらの人で、とてもついていけないなと。当時は絶対継がないぞと思っていたんですが、職人的な気持ちっていうのは、すごい受け継がれているなと。ほんとに、ほんとにしばらくしてから、ちょっとでもその技術を受け継いで、その世界で自分の物を表現したり仕事にできたら、ほんとに良かったな、とは思ったりしましたね」
お父さんがやっていた仕事の意味を見つめ、その不在からしばらくして訪れた心境の変化を表すために、アキノさんは「ほんとに、ほんとにしばらくして」と言った。その時間の経過と、少しの苦さと、過去を振り返るときの泣きだしたくなるような気持ちが、その時フロアに共有された気がした。それはアキノさんにとって一つの後悔であるかもしれなかったが、同時にお父さんへの思慕と、その仕事への敬意の表明でもあった。先のタナカさんもそうだったけれど、本当に個人的な話だ。それを、ためらいつつもここで共有してくださったことに感謝の気持ちが生まれた。ためらいつつ語られることがらの佇まいの美しさや、静かな切実さを皆で感じることは、一本の密度の濃い映画に浸るような、貴重な経験だった。
「今日はみなさん音楽をやっている方も結構いて、一緒に演奏したらぐっと近くなれるなと、心から。それは本当に羨ましいと思いました。自分は美術か、絵描きの真似事はずっとしてるんですが、音楽はもっと人の間が近づくなと思って。子どもの頃から音楽は好きで、DJの真似事なんかをしてます。寺尾さんの曲をかけたりとかも」
「真似事」という言葉に、プロではないという謙遜が感じられたけれど、美術にせよDJにせよ、好きなことを細く長く続けていけるのは、素晴らしいことだ。私は、アキノさんの中に残っているお父さんと取り組んだ漆器の記憶に興味があった。体が多分覚えている。いつかまた取り組んでみてもいいのでは、と投げかけた。お父さんがいない今だからこそ、漆器でできる彼なりの表現があるのではないか、という気がした。
「映画も好きなんですが、最近やっと「パワー・オブ・ザ・ドッグ」とか「ドライブ・マイ・カー」なんかを見て、「今現在を生きてる人たちの話だなあって思えるんですよね。音楽を聴いてそういう風に感じられるものって、今なかなかなくて。そこがやっぱり寺尾さんの曲を聴くと、ほんとに美しいなと思うこと以外に、今、ここ、みんな一緒に生きているっていうか、それぞれ色々感じながら生きているなっていうのが、そこで繋がれる感じがして。ずっと聞かせてもらってます」
そういえば、私は今日また考えていた。『天使日記』には書いたけれど、私の「使命」の話だ。「芸術」でも「表現」もないと言われた。それは「子供でいること」だった。だから例えば、私は「自分史上最高に素晴らしいアルバムを一枚作ること」と「この世の中が少しマシな場所なって人々がより近く、緩やかにつながること」のどちらかが叶うのだったら、断然後者を選ぶなあ、とぼんやり考えていたのだ。「この世の中が少しマシな場所になる」ということ、そこに資することができる音楽が作れたり、音楽活動ができればそれでいい、と感じるのだ。だからアキノさんの言葉は嬉しかった。
私たちは今どういう場所にいるんだろうか。
それぞれの立場の違いを越えて、誰の声に耳をすますということは可能だろうか。
私たちの夢はどのように可能なのだろうか。
そういうことを音楽を聴くことで思い出したり、そこで歌われた痛みを音楽を通して分かち合うということは?

歌を作って歌うことは私にとっていつだって、新しく人と出会うためのチケットだった。もちろん歌うことが好き、弾くことが好きだ。でも、歌を通じて、あるいは著作を通じて、いつだって、いくつもの大切な出会いが生まれた。歌って弾いて書いて出会う。そして別れ、また出会い、また出会う。大切な何かを受け取る。そのことがすべてだった。一人の人間には見えないものが沢山ある、そのことを忘れないために、人と出会い続けたい。私の人生は多分それだけだ。