「あのころのパラオを探して」(集英社)を出版
「すばる」誌での連載に追加取材、加筆をして出版しました。
8月15日TBSラジオの荻上チキさんの「Session22」に出演させていただいたほか
8月23日Tokyo FM「TIMELINE」で明治大学政治経済学准教授の飯田泰之さんに
学術的かつ読みやすいエッセイとしてご紹介いただきました。
出版にあたって立命館大学の社会学教授の岸正彦さんが書評を書いてくださっています。
寺尾紗穂『あのころのパラオをさがして』書評 評者 岸政彦
一度だけ、寺尾紗穂と会ったことがある。そこにいるのにいないような、不思議な透明感のあるひとで、こちらの言葉がすべて吸い込まれる乾いた砂のような耳を持っていると思った。それに比べて自分は、体も声も大きくなにもかもがさつで、とても恥ずかしく感じたことを覚えている。
その少し前、寺尾紗穂という存在を知ったときに、ミュージシャンとしての寺尾紗穂と、ノンフィクション作家としての寺尾紗穂が、どうしても頭のなかで結びつかなかった。彼女のピアノと歌はとても美しく、私の記憶のなかでその儚い佇まいや所作と結びついて、音楽家としてのひとつの像を形成したが、しかしその同じひとが、原発労働者や植民地時代の南洋諸島を取材して本を書いているとは、にわかに信じ難かった。ジャンルを超えて表現をするひと、というものはたくさんいて、しかし大抵は、その表現のあいだには何か一定のまとまりや共通性があるものだが、彼女の場合はかけ離れている。そして、そのかけ離れ方が、私にとってはとても痛快だった。何でも自由に、好きなことを表現してよい。私は寺尾紗穂から、そのことを教えてもらった。
何かに出会ったら、徹底的に付き合う。ものでも場所でもひとでも、はじめから区別しない。たとえばもし彼女が猫好きなら、路上で目があった子猫をついつい拾って、そして最後まで育てるような、そういうひとなのではないか。一度しかお会いしたことがないが、そう思う。
寺尾は、中島敦の本をかばんのなか入れ、サイパンを訪れた前作(『南洋と私』)に引き続き、パラオを訪れる。私たち読者は、筆者とともに、照りつける白い日差しのなかを歩く。熱帯の濃い緑の葉が風にそよぐ音、派手な色をした見たこともない鳥たちが歌う声が、確かに聞こえてくる。寺尾の耳はすべての音を吸収し、目はすべての色を焼きつける。私たちは寺尾の目や耳となって、太平洋の青い海を眺める。
私たちの表現は、たとえば音楽なら個人的で親密な領域へと縛り付けられる。あるいは、たとえば社会や政治を論じるときは、巨大で荘厳な物語に取り憑かれる。しかし本書では、私たちは、小さな虫の羽音、真昼に建物の庇の影に入ったときの、あの方向を失う感じ、市場で地元の買い物客がにぎやかにおしゃべりする声を味わいながら、同時にあの「戦争」というものがいったい何だったのか、そしてその戦争というものの上に築き上げられながら、まるでそんなものなかったかのような顔をしている私たちの社会がいったい何なのか、ということを、考えさせられることになる。寺尾は、小さなものと大きなものとを、区別しない。音楽と文学を区別しないのと、同じように。
寺尾紗穂は、中島敦とともにパラオを歩いた。やがて近い将来、寺尾紗穂の本書とともにパラオを歩くものがいるだろう。そのようにして物語は引き継がれ、語り直されていく。そして歌もまた、歌い継がれていく。その真ん中に、寺尾紗穂が立っている。そこにいるのに、まるでいないような、そんな立ち方で。