SAHO TERAO / 寺尾紗穂

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Uchiakeの記 vol.4 吉祥寺篇その4

Uchiakeの記 vol.4


●1人目 シンガーソングライターにならなかった看護師
●2人目 申し込み時の悩みが解決した映画プロデューサー
●3人目 集団の中にいることが苦手な納棺師
●4人目 台湾人の彼に会えない新社会人
●5人目 自閉症の兄を持つ男性
●6人目 漆器職人の亡父を持つDJ
●7人目 お菓子作りの好きな栄養士(手製クッキーを持参!)


●お菓子作りの好きな栄養士(手製クッキーを持参!)

「好きな人にお菓子をあげて喜んでもらうのが嬉しくてちょっとでも、誰かの心が温かく、じゃなくても(笑)ぬるめくらいでもほっとしていただけたらなと思って今日はクッキーを作ってきました」とサオリさんが言うと思わず拍手が起こった。一人目のヤナセさんの奥さんだ。「アレルギーや人が作ったものは、という方は無理をせずに」と補足するおとなしそうな彼女は栄養士だ。「人の話を聞くのが好きなので参加させていただいて」と言う。

ヤナセさんが、「妻は製菓衛生師さんの資格ももってて、お菓子がすごく上手で、私も大好きで。一回だけ曽我部恵一さんに食べてもらったことがあって美味しいって言っていただいて感激して」とニコニコと説明する。発酵バターを使ったクッキーはココナッツやラベンダーなど種類があって小さいのに食べ応えがあり、本当に美味しかった。焼き菓子は日持ちがする。だから贈り物にも向いているし、今は通販などで趣味のお菓子作りを副業にしている人もいる。お店をネットに作っても、友達から始まってだんだんと広がっていくような気もする。
「めっちゃ美味しいです」
「香りがいいです、ラベンダーの」
「紅茶が飲みたい(笑)」
などはずんだ声が広がる。話は再び「冬にわかれて」に戻っていく。
「寺尾さんの孤独感みたいなものが出てくるソロと違って、やっぱり三人でやってらっしゃるっていうのが、前向きなパワーのような違う良さがある気がして、いつも仕事前に朝日を浴びながら聴く音楽です。それで目を覚ましてます。寺尾さんの声が背筋を伸ばさせると言うか」とヤナセさんが言うと、「びしっとしなきゃっていう、そういう印象あるんですよね」と新社会人のモリモトさんが言葉を継ぐ。「歩きながら普段聞くのと、今日のように座って聞くのとも違いました。一曲一曲小さな物語になっていることに気付くというか、歩いているときは気づかなかった」とハセガワさん。モリモトさんは真っ暗にしてランプだけつけて聞いて「暗いからこそ光が見えたり」、お風呂で歌うと響いて返ってきて「切ない気持ちになったり」してお勧めだと教えてくれた。納棺師のキクチさんは「田舎に行く高速バスで聞くのが好き」という。
 みんな色んなところで、色んな聞き方をしているのだなと不思議な気持ちになる。私は車も持っていないので、ドライブしながら聴くということもほとんどない。けれど、たまに車に乗せてもらう機会があると、車窓から見える景色や天気によって歌の響き方も全く異なることに驚くことがある。
 私はヤナセさんが精神病院を選んだことが気になっていた。看護師全般大変な仕事ではあろうけれども、精神病院での看護の仕事はどのような大変さがあるのだろうか。
「心の問題にすごく興味があって、選びました。すごく刺激的な色んな方が(笑)。死にたいって言う方ばかりって言っても大げさじゃないです。すごい環境で生活してきた方とか、お話を聞きながら関わらせてもらってるんですけど、そういう方って、結構エネルギーが強くてパワーがあって、「困ってる」って訴えされる方が多いんですけど、自分の中でちょっと一線を引いて。自分は常に冷静でいないといけない。それに引っ張られて自分まで落ち込んじゃうということもあるんで、患者さんがわーっとなっても自分は冷静に対処しようと注意して仕事しています。学ばせてもらってます。患者様に」
精神病院も色々なところがあると聞くし、見えない虐待が常態化しているところもあるようだが、「患者様」という言葉に、ヤナセさんの勤めている病院の、患者さんを下にみたり、なれなれしく扱うことのないように、というポリシーが滲んでいるような気がした。たかが言葉だが、されど言葉だ。
「死にたい」人々が集められている現代の精神病院。若い人も増えているはずだ。娘が不登校になってしまったママ友が、娘さんが体重が減ってしまい、そのうち入院て言われてるの、と言っていたのを思い出す。「死にたい」人にエネルギーがないわけではない。むしろ強いエネルギーや気持ちを持った人々が、集団に馴染めないまま、その解放する場所を見いだせずに隘路に迷い込んでいる。最近若手のメディア・アーティストと言われる筑波大准教授の落合陽一氏が、安倍氏暗殺に際して、「政府で働く人の悪口をみんなで言うと、その悪口を聞いた誰かが、日本を良くしようと思って銃でその人を撃ったりするんだよ」という非常に事態を単純化した意見をツイートし、多くの反論が見られたが、落合氏をふくめた若い世代が批判と悪口をごっちゃに捉えてしまう、というのは、娘達が学校で受けている教育を見ていると合点がいくところがある。私たちの世代では、男子が「ブース」と言ったり、誰かをあだ名でからかったり、ということは日常茶飯事だったが、今の子供達は「人を嫌な気持ちにさせるチクチク言葉はいけません」と小学校一年生から習い、あだ名も「いじめ防止」の観点から禁じられ、「さん付け呼び」が徹底されている。容姿をからかったり乱暴な言葉の使用を禁じるのは、欧米諸国でも教育現場で取り入れられているようだし、大切さは理解できるのだが、気になるのは世界の中でもダントツで「空気を読む」日本において、この指導がどう子どもたちの心理や行動に影響するのだろう、というところだ。自分の意見を積極的に言うことが文化として根付いていないところに、「自分の発した言葉が相手にどうとられるのか」と人の気持ちを慮ることばかりを第一に教え込まれていては、「思ったことを言う」こと、ひいては不満や理不尽な状況に対して言葉で発信することまでも委縮させてしまうのではないか、と思うのだ。「チクチク言葉」を禁じる指導と並行して、おかしいと感じることを自由に話せる場を用意したり、違和感を言語化させていくことが重要になってくると思うのだが、娘達の学校のやり方をみる限り、作文のテーマが「この学校のいいところを書きましょう」と限定されていたりして、向かうべきベクトルが真逆である。こうした教育のメッセージは一つであろう。「友達や、母校や、自分の国のいい所を見つけられる「いい子」になりましょう」。最近は多くの学校で週に2日ほどカウンセラーに相談できるようにはなってきているが、こんな雰囲気の教室に、違和感を感じる子どもたちが本音を吐き出せる場所はない。不登校児が増えるのは必然である。
落合氏のように「政府の悪口なんか言っちゃいけない」と感じている人たちが、政治に対して批判的視点を持てるはずもないし、選挙に行く必要性も感じられないだろう。それは長い目でみて、自分たちの首を絞めることになると思う。すでに長年の低投票率が、十分にこの国の首自体を締め上げてきたとも言えるが。
 
その後は、たちあげたレーベル「こほろぎ舎」の名前の由来や、花の寄せ植え「花とこほろぎ」を始めたことについて、質問が続いた。「こほろぎ舎」は尾崎翠の作品「こほろぎ嬢」からとっている。「こほろぎ嬢」はおそらく翠自身が投影されているのだと思うが、ある日の図書館での出来事を描いた作品だ。図書館で「産婆学」の勉強をする女性を見かけた彼女が、その人を見ながら立派な産婆さんになりますように、と祈りながらも、詩や小説といった霞のような文学というものを志し、食い扶持を稼ぐこともままならない自分自身のたよりなさを吐露する場面が印象的だ。世の中を生きて行くことは世の中に合わせて働いていくことでもあるが、そこに馴染めない人間はどうやって生き抜けばいいのか、古今変わらぬ悩みについて書きながら、翠は「私は、ねんじゅう、こおろぎなんかのことが気にかかりました」と書いた。道端のこおろぎのことなど、世間からみたら「取るに足らないこと」だ。けれど、とるにたらないと思われているものを凝視することで見えてくるものがあり、凝視できる人にしか感じ取れない世界があるはずだ。文学者やアーティストの「表現」はそういう場所から生まれていくものだし、自分もいのちの最後まで生み出していきたい。そんな思いを込めて、(また個人的にも立ち止まって虫や生き物を観察するのは大好きなので)「こほろぎ舎」とつけさせてもらった。
「花とこほろぎ」としてウェブの寄せ植え販売を始めたのは、個人的な落ち込みからベランダ仕事に打ち込み、何かのお礼に送ったり身近な人の誕生日に送ったりするところから、寄せ植えを送るという試みを始めたことがきっかけだった。長らく花を贈るといえば花束を送っていたが、時間がくると枯れて捨てられてしまう花束と違って、多年草をいれこんだ寄せ植えは年をまたいで花を咲かせてくれることがある。どれかが枯れたら、好きな花を買ってきてメンバー入れ替えをしてもらってもいし、お庭のある人は土に植え替えてもらってもいい。そうやって形や場所が変わっても、贈られた人の傍で命が続いていくということが素敵に思えた。それから、ある人から聞いた森の話も頭にあった。それは、森の木々は根っこで連絡をとりあっていて、弱っている木がいると、みなで根っこから栄養を送ってあげるのだという。根は水や栄養を吸い上げるもの、としか認識していなかった私はとても驚いた。植物同士、土の下ではそのような交流が行われているのだとしたら、鉢ものも、一鉢に一つの花ではなく寄せ植えにしてあげたら、花同士そこに何か素敵な関係が生まれていくのではないか、そんな思いであらためて寄せ植えに向かい合っている。

会も終盤になり、伊賀さんが感想を言ってくれた。
「先ほどのあなた(新社会人のモリモトさん)のお話がすごくて‥それに対してちゃんと答えられたのかなっていうのが残ってます。解決策をずばっと伝えれないってことが」
「悩みはここらへんにあるんですけど、それはどうにもならないから瞬発的な幸せを吸収しながら生きてて、今日のライブも余韻がしばらく続いて幸せになれるから、もうすごい
幸せをいただきました」とモリモトさん。
「それは嬉しいんですが、でもまあ本質的ではないですよね」
伊賀さんは最後までひっかかりがあるようだったが、必ずしも明確な答えは出さなくてもいいのではないかと思った。他人は他人であって、他人ゆえに本人よりも客観的な意見を提示できるかもしれないが、他人ゆえに捉えきれない部分も多い。事態が複雑であればなおのことだ。それでも一緒にああでもないこうでもない、と考えてみること、その時間と空気を共有することができればuchiakeの目的はおおむね達成されたのだと思っている。それで何が変わるのだ、と言われたらそれは参加者に聴くしかないのだけれど、ぜひ気になる方はこの不思議な温かい場に一度参加してみてもらいたい。もちろん、話したい仲間がいそうなら最初から自分で始めてしまってもかまわないのだ。そんな小さな輪はすでにあちこちで生まれてきているはずだ。
あだちさんは「ちょっと言葉にならないんで」とコメントはパスしていたが、会が終わった後、さらっと話をしてくれた。
「今日なんか来て皆の輪のまわりをまわってたんだよね、あれ天使だったかな。こういうの久しぶりだな」