SAHO TERAO / 寺尾紗穂

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それでも言葉は優しくひびいて

 昨日、見てみたいけれど忙しくてとても行けないだろう、と思っていたのだが、直前に招待いただくという展開になり、なんとか時間も作れたので、エンディングで「あの日」という私の曲を使ってくれているという、ふたば未来学園高校演劇部『Indrah ~カズコになろうよ~』を国立劇場に見に行った。
 一言で言ってすばらしかった。幕が下りると、演出メンバーだろうか、3人の生徒が出てきた。司会のインタビューを受けて一人の男子生徒は「これはノンフィクションです」「とにかくミーティングを沢山しました」と言っていた。サラッと元気よく言っていたけれどすごいことだ。
 たとえば「ミッキー」のまねがうまい男子がいる。あのどこかくぐもった高い声でしゃべられると誰だってくすりとおかしい。でも、その真似は、以前学校でなじめなかった大人しい自分自身を塗り替えたくて練習したものだったと語られる。心がちくっとする。そしてそれがいわれるとおりノンフィクションであるのだとしたら、それを公にして演技を見せてくれている事実の迫力に、後からただ圧倒される。
 たとえば互いの存在について言いたい事があるけれど、うまく伝わらない姉妹同士。それぞれのモノローグが語られていく。自分は姉なのだからもっと頼って欲しい。お姉ちゃんは優しすぎて頼りにならない。とげだった二つの心は後半重なっていく。姉は妹をおんぶしてもっと頼っていいんだよと歩く。優しい言葉を聴きながら、客席で泣いている人の気配を感じる。福島から応援に来た出演者の保護者のようだった。多分、東京であの地震を迎えた自分と、泣いている福島の人、見てきたものがあまりにも違う。それでも言葉は優しく続いて、会場の人全部を包み込んでいた。
 演じる生徒たちがあまりにも自然体に青春を生きているから、ふと忘れてしまうけれど、劇中では時おり、ニュースで聞きなれた福島の地名が入ってくる。それで、一瞬あの3・11の事実の重たさを意識する。でもいくつかの重要な場面を除いては、みんなその影響を受けているのか受けていないのか分からない日常のテンションで劇は進む。
 唯一、登場しないIndrahをみんなが宝物のように回想する。彼女は、みんなを「カズコ」にしてくれたんだと。この劇のタイトルは「Indrah-カズコになろうよ」という。最初外国人が日本人に帰化する話?と思ったのだが、カズコは「家族」だった。Indrahが自分たちを家族のように結び付けてくれた、というのはどういうことだろう。それは、彼女が来る前は、みんな同じ福島の高校生でいながら、実はそれぞれがばらばらに重たいものを背負っていたということなのかもしれない。ひきこもりの男の子が言うように、自分のひきこもりが地震のせいなのか、そうではないのかは分からない。色んな感情と経験が混ざり合ったまま混沌と、目の前に立ちふさがる。東日本大震災は原発事故でもあって、放射能という目に見えないものや、それに付随して生じたもろもろの出来事が、人と人との関係を以前とは別のものにしてしまった、そういう話は、福島にいる友人たちからも少し聞いていた。加えて津波があった。ただでさえ多感な時期に、生徒たちが思うことは、ずっしりとした重みをもってそれぞれの心の中にあるのだと思う。
 そこにstrangerであったIndrahがやってきて、みんなは彼女を含めて"わたしたち"になっていった。その大きくゆるやかな関係の中で一人ひとりが、少しだけ自由に呼吸することができた、まるで家族といるみたいに自然に生きることができた、そういうことだろうか。
 そうだとしたら、この物語は大切なメッセージを持っている。同じように見える集団の中で、ぽつんと一人違う誰かがいるとき、そこが、その人が笑顔で居られる場所か、居られない場所かによって、その集団の雰囲気は大きく変わる。ある集団が、あなたがいてもいい、と他者を内側に包み込むとき、一見均質にみえる集団自体が「みな同じでなければならない」という呪縛を解いていく。すると、その中の一人ひとりが差異を差異として、生き生きと生きることができるようになる。Indrahがどんな少女だったか、観客には最後まで十分には伝わらない。けれど生徒たちにとって彼女がどれほど大切な存在だったかということは何度も伝えられる。いじめや不登校、発達障害の子が厄介者に見られてしまう今の日本の教室で、この誰かを包み込む態度や雰囲気こそが最も必要とされているのではないか、と思う。そういう理想的な人間同士のあり方が、目の前のステージで展開されているように思った。だって、自分の痛みや弱みや悩みをこうやって共有した上で、物語に組み込んで大勢の人の前で仲間たちと演じていく。メンバー全員(これがまた多い!)の間に信頼関係がなければ、簡単にはできないことだ。
 いくつもの独白があったけれど、誰かを支える人になりたい、というフレーズは何人かが口にしていて印象に残った。ほとんど泣きそうになって言っていた女の子もいた。ああ、この子はなにを見てきたのだろう。誰かに支えられる体験を通して強くそう思ったか、あるいは、うまく支えることができなかった誰かのことが忘れられずに、胸の中にずっとあるのだろうか。いずれにせよ、彼らの声は、日本のどこの若者の声よりも今、切実に澄んでいるのかもしれないと感じた。
 劇中では「私達にしかできないあのやり方で」と言って、みんなが想像の世界を創り出していた。ディズニーランドでは、5人くらいでシンデレラ城を形作っていて、女の子2人組みはチップとデ-ルだった。そして、あの「ミッキー」が登場するとみんながわーっと群がっていくのには笑ってしまった。 けれど、その後で涙が出そうになった。そう、ミッキーは人気者だったんだ。ミッキーの物まねで周囲に溶け込もうとした彼が、みんなに堂々と手を振っていた。
 夢は叶うと言って、今たとえば中学生の何割がそれを純粋に信じているだろう。小学生の娘たちが、流行っていると聞いているボカロ(初音ミクの進化系?)の歌詞を聴いていると、どん底から歌っているみたいな歌が多くて、これを小学生から聞いているのか、と少し心配になる。でも、ふたばのみんなが昨日見せてくれたのは、まぶしいくらいの夢の作り方。人が人を思う気持ちの強さ。誰かの本音を茶化さずに、私もだよって受け入れる優しさ。あんまり真っ直ぐなエネルギーをもらって、その余韻の中、いま書いている。
 福島と東京は違うし、家族と「カズコ」も違う。Indrahとみんなが違うように、あなたと私も違う。でもね、というその先を見せてくれる舞台だった。みんなにならって想像の翼を羽ばたかせるなら、そう、多分遠くない未来に、ふたばの校内にある「みらいシアター」のピアノで私は「あの日」を弾いてるんじゃないかな。
 そのときは三番まで歌いきって、音の消えていく瞬間にみんなと耳をすましてみたい。