SAHO TERAO / 寺尾紗穂

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せめて鳳仙花の種を一粒

 前回小林エリカさんと松井一平さんと山鹿泰治展を見に行った時も御苑だったのだけれど、今回は、一平さんと作るアルバムの打ち合わせ。私がそのあと太宗寺と正受院の奪衣婆を見たくてやっぱり御苑になった。一平さんは入ったカレー屋で、レコーディングのたびにノートを一冊作るのが好きなんだ、とまっさらなページをぱらぱらと見せてくれた。こんなに書くことあるのかしら、とストローで酸味のきいたラッシーを吸いながら思う。
 店を出ると、一平さんがこれこないだの、とZinsterの夜のライブの出演料の入った封筒から半分くれた。だいぶ遅いけど、忘れていたので棚ぼた感はある。「ちょっと下の本屋寄りたい」と一平さんが入った店は、かなり濃い品ぞろえで、手に取ってみたい本がいくつもあった。ずっと買おうと思っていた加藤直樹「九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響」と、血盆経や巫女の文字が並ぶ章立てに惹かれて宮田登「ケガレの民族誌」を、もらったばかりの出演料で買った。
「九月、東京の路上で」は「反「反韓・反中」」をかかげて仕掛けた書店もあったりして結構売れているということを新聞で読み、買いたいと思っていた。数か月前にも、ここならあるんじゃないか、という隣町のちょっと品ぞろえがいい本屋にいって店員さんに聞いてみたのだが、その存在すら知らないようでがっかり帰ってきたということがあった。

 私がこの地震にまつわる虐殺の話を母から聞いたのは小学校3年か4年の頃だ。とてつもなく驚いた。そして意味が分からなかった。その時その不可解ゆえにとても重要に思えたその情報を、一番仲の良かった親友に休み時間に教室のはじっこで教えたことを覚えている。ふざけまわる男子たちで騒がしい教室の中で「え、なんで」と驚いた親友の声色を今でも思い出せる。母は「朝鮮を植民地にしたり、安く働かせたり、日本人の中には朝鮮人に恨まれてるんじゃないかっていう不安があったんでしょう」と言った。けれど、それがなぜ虐殺になるのか、当時の私にはよくわからなかった。どうしてそういう不条理が起きるのか、という疑問はだんだんと膨らみ、大正や昭和、戦争の時代への興味に連なっていった。
 高校生になると、新聞に載っている近現代史や文学関係の講演会を調べては出かけていくようになった。一方で中2の時作ったミュージカルサークルもひっぱっていたから、どっちにしろちょっと変わった、完全にゴーイングマイウェイな中高時代だった。高2の秋、荒川のあたりをめぐる朝鮮人虐殺のフィールドワークに参加した。外務省職員も密かに参加していたが、全部で15人ほどで、ここに死体の山があった、川に死体が流れていたなど、当時を知る方の話を聞きながら歩いた。最後に荒川河川敷に到着した。ここを掘ると今でも骨が出てきたりする、とのことだった。傍らに赤い鳳仙花が植えられていた。追悼した人々が植えたものだ。鳳仙花は朝鮮の人々にとって特別な花です、と説明されたと思う。この花が朝鮮で有名なのは、洪蘭波作曲、金享俊作詞の「鳳仙花」という曲があるためだ。金は、日本支配下にあった朝鮮の無念を暗にこの花に託して詩にした。歌はソプラノ歌手金天愛が歌ったことで人々に広まり、ついには朝鮮総督府から禁止令が出たほどだったという。

「では次、オウム監視委員です、二名から四名。人数が多い方がおひとりの負担が減ります。どなたかいらっしゃいませんか」
小学校1年生になった長女のクラスの保護者会後に行われたクラスの役員・係決めでのことだ。誰も手を挙げない。
私の住む町には元オウムの信者が暮らすマンションがある。警官が常に立ち、監視にあたっているが、住民も自ら防犯のためにこれに加わろう、という地域団結の意識がこの小学校各クラスでの「オウム係」の設置につながっている。小学校だけではない。地域の団地の役員もこの監視に加わっており、知り合いのギタリストAさんもかつてこの団地役員になったとき、オウム監視に加わったという。学校から配られた通学路マップには、オウムのマンションが明示されそこに面した道は×印が描かれて子供が通ってはいけないことになっている。広場のバザーで品物を買えば、あとから売り上げはオウム対策資金になるとわかったり、定期的に商店街をオウム反対のデモの列が歩いていたりもする。
「あの、監視ってやることは何ですか」
オウム係への立候補者が出ないなか、一人のお母さんが質問した。公安まがいの仕事内容に違和感を持つのも無理はない。
「簡単です。マンション前に立って、ノートに、部屋を出入りした人の様子や衣服をメモするだけです」
それはもはや完全に警察の仕事のような気がするのだが、30分なり60分なりの分担で、この地域の人たちがメモ取りつつ365日オウムを見つめている。その網の目のような監視ぶりに驚かざるを得なかった。
オウムは世界を震撼させた「凶悪宗教テロ組織」だから、こうした地域の動きに疑問を感じる人間というのは実は少数派だ。むしろ歓迎する声も多いかもしれない。そのあたりはオウム事件後、オウムの信者側の声を拾い続けるという重要な仕事をした森達也さんが、「なぜあのオウムを」となかなか人々の理解を得られなかったことにも表れている。しかし、私は疑問というよりも、こうした街の空気にある種の気味悪さを感じていた。

「Kで朝鮮人が13人、Kの村人によって殺された日です(関東大震災)。9月1日から3日K神社のシイの木にお参りにいきましょう」
駅近くKハウジングという在日の元歌手川西杏がやっている不動産屋の前にこういう看板が立っているのを見つけたのは、多分3、4年前だ。関東大震災の朝鮮人虐殺といえば、東京東部のイメージが強かっただけに、東京西部のしかも自分の住んでいる町で、同じような惨事が起きていると知った衝撃は大きかった。そして、こうした虐殺を各地で引き起こした普通の市井の人々から成る自警団が、流言飛語と不安の中で、自分たちの街を自分たちで守ろうという意識からできたことを考えるにつれて、その心性がどこかこの町の今に引きつがれているような気がしてならなかった。在日朝鮮人というコミュニティ内の「他者」が訴えなければ、虐殺の惨事があったことすらずっと知らなかっただろう。虐殺は、「ひどい朝鮮人の手から、自分たちの街を、家族を、自分たちで守ろう」という意識が暴走して起こった。だからであろうか、街に「加害」の痕跡がない。川西がお参りに行こうと看板に書いたK神社にさえ虐殺を伝える案内も慰霊碑もないのである。川西の書いた看板だけが、あの虐殺とこの街とをかろうじて繋いでいる。そのことも私の心を重たくした。

 最近地獄のことを調べていたので道端のお地蔵さんのことが気になっていた。親より先に死んだ子供など、立場が弱い者を真っ先に助けてくれるお地蔵さんは、広い信仰を集めてきたとわかると、がぜん親近感が湧いた。家から一分の四辻に建つお地蔵さんは、最近赤いべべを新調してもらって、ひときわ目を引く。「ごちそうさん?」と聞き間違える三女に「違うよ、地獄で助けてくれるスーパーヒーローだよ」というとおかしいのか、ケタケタ笑う。
 ある日地域報に目を通していると片隅に、このお地蔵さんのことが触れられていた。そして、そこは昔大橋場という橋がかけられていたということを知った。あまり目立たないが、お地蔵さんの脇には黒い円柱の碑が立っており、これがその大橋場の碑らしい。川が流れていたのか。そのことも意外だった。お地蔵さんの脇の道は旧甲州街道、昔の甲州街道だ。それを挟んで今はゲーティッドマンションがそびえたつ。3年ほど前にそれが立つまでは、緑の多い公団の古い戸建て住宅が並んでいた。その東脇に細い小道がある。今はマンション建設と共に舗装されてしまったが、2006年はまだ砂利の残る緑道のような道だった。この道で『Quick Japan』の取材時、金丸雅代さんがとってくれた写真は『Quick Japan』67号に載っている。長澤まさみ表紙のこの号は、森山裕之編集長が仕掛けた歴史に残る「政治特集」で、小林よしのり×森達也の対談や大貫妙子さんの六ヶ所村に絡めたインタビューもある。ちなみに北沢夏音さんが書いてくれた私の記事はタイトルが「乞食になる覚悟」で、今、元路上生活者のダンスグループ、ソケリッサのメンバーと絡んでいることを考えると面白い。
 話がそれたが、このお地蔵さんと、緑道と、かつて流れていた川、かかっていた橋について、私は「九月、東京の路上で」にすべて書かれていることに気づいた。

  暴行の現場となったのは、甲州街道を横切るK川にかけられた、「大橋場」と呼ばれた石橋であった。K川は現在は暗渠となって  いる。バス停「K下宿」のすぐ左わきである。そのななめ右向かいに、「武州K村大橋場の跡」という碑が立っている。

喫茶店でこの本を読んでいた私は、ここまで読んで、ものすごい寒気に襲われ、とても冷房の店内にはいつづけられずに、炎天下の中に飛びだした。そのまま自転車に乗って線路向こうの図書館まで飛ばすが、図書館に着くまで鳥肌が消えない。バス停の左わきといえば、例の緑道なのだ。あの緑道がK川だった、そして虐殺はその川にかかる大橋場で起きた。とりあえず、図書館でこのあたりのことを調べなくては、と思った。郷土資料コーナーを端からみていくと、「大橋場の跡 石柱碑建立記念の栞」という一九八七年に作られた薄い冊子を見つけた。そこには、橋の歴史についての記述が続き、最後の方に虐殺についてページが割かれていた。編者の下山氏が古老の証言をまとめたものだ。事実関係を要約すると以下のようだ。

K村は三か所に検問が置かれ、上町中町下町と自警団が分かれた。検問のあい言葉は山と言えば川、川と言えば山だった。(これにつかえたり、言葉に詰まった者が、よそ者あるいは朝鮮人の疑いありと睨まれたのだろう)二日夜、「京王」にやとわれて、府中から笹塚の現場まで移動中のトラックに12名の朝鮮人が乗っていた。上町中町の検問を飛ばしたトラックは大橋場で進めなくなり、村人にきりつけられた。責任者の団長は被害者をかばい、やめてくれと大声で叫んだという。最終的には世話人20名が調べられ、12人の被害者に対し、12人の加害者がでた。K村を含むT村連合議会は連合村全体の不幸として、つかまった12人が戻ったとき、12本の椎の木をK神社に植えた。町の医師は身命をかけて介護したという。関係文書はK小学校の書庫に納めたとされるが、でてこない。

 家に帰って、「九月、東京の路上で」の続きを読むと、著者の加藤氏も、私が見つけた「大橋場の跡」の冊子を入手し、紹介していた。その中で、加藤氏は慰霊のために植えられたかと思われた椎の木が、12人の加害者が戻った時にねぎらいの意味で植えられたものだったことについて「何とも苦い真相」と書いている。
 川西杏は13本の椎の木と書いていた。数が違う。川西は13人が殺されたと書いたが、本当はいったい何人の朝鮮人が死んでいるんだろう。12本の椎の木には、被害者の慰霊の意味は込められていないのだろうか。手当てした医師はどんな人物だったのだろう、ご子息が後を継いでいないだろうか。いくつもの疑問を抱えて、私は「大橋場の跡」の冊子の巻末に書かれた編者下山照夫氏の住所あてに手紙を書き始めた。
 翌日電話を頂き、その翌日に下山氏のお宅に訪問することになった。下山氏の名前は、区報に載っている歴史講座の講師として郷土史家という肩書と共に知っていた。87歳の現在もあちこちで講師として呼ばれて、現役で活躍している。お宅に行ってみれば、よく前を通っていたご近所の大きなお家だった。「まあ、よく熱心に、書いたもの見つけていただいて」とブルーマウンテンを入れてくださって話は始まった。
「橋は石橋があって、甲州街道で一番しっかりした橋だった。それが震災のときおちて、震災後の残務整理で朝鮮の人が重労働で駆り出されて、12人乗ってる小さいトラックが落っこちた。周りの人たちが言葉遣いがおかしいと、朝鮮人だーとなって法政大学の英文学の教授福原さんて人が散弾銃ばーんとやっちゃった。それでみんながーっとなって。実際に亡くなったのは2人。12人死んだという事書いちゃった人もいるけど、間違い。あと10人は手厚い介護受けて、その後はわかりませんが」
下山氏によれば、13人説はそういう噂を徳富蘆花がそのまま「みみずのたわごと」に書いたものがある。これを元に間違った記事が書かれたことが原因で今なお残っているという。死んだ2人以外は回復したはずで、介護した医師は祖父江太郎という。漢方医だったが、結核で結婚して3か月で死んだそうだ。震災当時はまだ若かったのだろう。一方加害者は下山氏の親戚にあたり、一高に入り他家に養子に入っていたが、そこが破産して戻ってきていたという。当時の一高に入れるのだから優等生だ。血気盛んなエリート青年が、流言飛語を信じて疑わず、無抵抗の朝鮮人労働者を殺した。
「アイゴーってほとんど裸で懇願してるのを切るわけですからね。剣道、棒術みんなやってますからね。私がいれば体張ってやめさせたけどね。おじさんは体は張らなかったみたい」
泣いてやめてくれ、といった団長は村の消防団長で、やはり下山氏の親戚の「おじさん」、並木波次郎だった。「私がいれば」と言った下山氏の好々爺然とした瞳を見つめる。女子供はみな北に避難していたという。日本刀や散弾銃を振りかざす殺気立った男達の中でやめてくれ、という事がどれほど勇気のいることなのか、私には想像できない。止めたくても止められなかった、それも分かる。でも、と思う。ほんの一言、一人でも二人でもいいから相手を立ち止まらせるような牽制の言葉を吐くことはできなかったのか。「こいつらもし無罪だったら、お前人殺しだ、家族が辛いぞ」でも「とりあえず証拠の一つみつけてからやっても遅くまい」でも何でもいい。狂気に燃える男たちの頭を冷やすことはできなかっただろうか。やめてくれ、という人があと何人いたら、惨事は避けられたのだろう。90年前の夜、自宅のすぐ傍の橋にうずまいていた男たちの狂乱の熱を感じようとするも、あまりに遠い。
 冊子の書かれた1987年、下山さんを中心に大橋場の跡の碑が建てられた。黒光りする円柱の碑には出資者の名前が刻まれている。
「あの擬宝珠の欄干にご供養もいれてね。それからあの本を書きました」
当時は12人被害者が出たら自動的に12人加害者を出さなければならなかったという。それゆえ叩いた程度の人も連行され、一か月ほど拘留された。そうしたこともあって12人をねぎらうというニュアンスも強まったと思われる。下山さんや多くの関係者にとっては、この大橋場の碑の建設が、虐殺の慰霊も兼ねた意味を持ち、それで「終わったこと」になっているのだろう。しかし、碑には特に虐殺の記述はなく外側からそれを知るすべはない。特に若い世代がこのことを知る術はほとんどない。加藤氏でさえ、この資料を「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」から提供されてようやく出会っているのである。この重要な虐殺の事実を書いた「大橋場の跡」の冊子タイトルには「朝鮮」も「虐殺」も出てこないために、図書館でいくら検索してみても引っかかっらない。歴史としては半ば封印されたとさえ言える。

 先日女優Mさん出演のCM音楽を作った。9月オンエアに先駆けてyoutubeで視聴が始まっている。視聴開始早々、悪評価がついているのが気になった。人を不快にさせる要素はほとんどない涼やかなCMだ。Mさんについて調べると、お母さんが韓国の方で、ネトウヨの間では「チョン」「不美人」などとめちゃくちゃに叩かれていた。こうした視聴者が増えてきているのだろう。Mさんの視聴動画には、すでに視聴者が評価できないようにしているものも多くあった。韓国系とみれば悪評価を付ける視聴者に荒らされるのを防ぐためだ。美しいと感じるその素直な感覚さえ、偏見というつまらないものに譲り渡してしまう悲しい人々が増えている。
 
「反韓反中」の空気が若い層にも広まりつつある今こそ、過去の事実は改めておさえておかなければならない。臭いものに蓋ではやがて自壊が始まる。私は一人思う。この街で今更朝鮮人虐殺の慰霊碑など建てられないのであれば、あの大橋場の碑の横に、史跡の一つとして小さな看板でも立てられないものかと。かつて震災の後、ここで無為な血が流されたことを伝え、平和をいのる小さなものでいい。それも無理ならば、私はせめて鳳仙花の種を一粒、お地蔵様の横に植えたい。鳳仙花の花言葉は「私にふれないで」というものが有名だが、「急ぎすぎた解決」という意味もあるそうだ。夏から秋、赤い花咲くころ、見る人が見ればわかる、それで良いわけはないのだけれど、何もないよりはずっといい。