SAHO TERAO / 寺尾紗穂

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Uchiakeの記 vol.8 上田篇

Uchiakeの記 vol.8 上田篇

一人目 おじいちゃんが特攻兵だった直井さん
二人目 やどかりハウスに暮らす本田さん
三人目 やどかりハウススタッフになった美里さん
四人目 半年間やどかりハウスで暮らした経験のあるはるひさん
五人目 パートナーの連れ子との関係を考える瑞穂さん
六人目 娘たちの不和に悩む元島さん
七人目 主に記録をとってくれた秋山さん
八人目 家族とのこれからの在り方を考える三好さん
九人目 生活保護を受給する妹のいる平田さん


 上田映劇での君島大空さんとのライブの翌日、直井さんに提案していただいていた「uchiake」のために、少し離れたゲストハウス「犀の角」に向かう。ブッダの言葉「犀の角のようにただ一人あゆめ」からとっているのだろう。様々な人間関係からもたらされる悩みや苦しみ、そこから逃れるには「ただ一人」になることが必要である。一泊500円で女性が泊れるシェルター「やどかりハウス」としての機能もあわせもつ「犀の角」。困難に満ちた人間関係を逃れて一人の宿を確保する「やどかり」と「犀の角」の思想はひびきあっている。
上田映劇はただの映画館としての機能だけではなく、不登校のこどもたちの居場所にもなり、子供たちと松本在住の三好大輔監督のもと映画作りの活動も行われてきた。私も三好監督とは斜里の8ミリをもとにした映画の音楽を担当したこともあり、上田が面白いという話は監督から少し耳にしていた。加えて、駒ヶ根でライブをしたときにも上田のメンバーのお一人が「犀の角」などが紹介されているパンフレットを手渡してくれ、いつか上田にもと声をかけてくれたので、覚えていた。
「犀の角」の一階はおしゃれなカフェのような広々としたスペースで、低い舞台のようなところに机といすが置かれていて、時間になると少しずつ人が集まった。記録をしてくださる秋山さんを含め9人でスタートする。映画館を子供たちの居場所にする「うえだ子どもシネマクラブ」の代表でもある直井さんが口を開いた。
「昨日のライブがすごすぎて眠れなかった。ライブの時にいろんな景色が浮かんでくるし、思い出すことが多すぎて。亡くなった人、会えなかった人に対して、先に亡くなっちゃったひとのことがすごく沢山でてきて、特に特攻隊の歌。おじいちゃんの景色がすごい出て来た。戦争のこと。おじいちゃんは特攻隊に行く日も決まっていたけど終戦を迎えて行かなかった。何を思ってあの戦後を生きてたんだろうか。それがあったから生まれてこれてよかったね、と家族の中では言われてきたけど、でもたぶんそれはすごいトラウマで、亡くなった人に、ああ聞けばよかったなということを思い出していました」
私がこの日、浅間温泉に滞在した特攻兵たちが歌ったとされる「浅間温泉望郷の歌」を歌ったのは、偶然からだった。前日の名古屋ライブにカメラマンとして来てくれていた滋賀のもりのさんが、同じホテルで朝食をとっているとき、おじいちゃんが魚雷でつっこむ訓練をしていたという話をしてくれたのだ。これから向かう上田は無言館もあるし、同じ長野という意味では浅間温泉のあの歌を歌うのもいいかもしれない。急遽セットリストに入れた。
いまでこそ、『永遠の0』がベストセラーとなり、映画化もされ、知覧の記念館には若い人も多く行くようになったと言われる。さまざまな小説や映画、ドラマの中で特攻隊はどちらかといえば「国を守るため命を投げうった若者」として美化されている。しかし、戦争直後、国民の「特攻の生き残り」への視線は冷たかったと言われる。お前が戦わずのこのこ帰って来たから日本は負けたんだ。そんな心無い言葉が投げつけられたと言われる。まだ少年のような子たちもいた。彼らはグレて戦災孤児たちや全国から集まった浮浪児たちの中で徒党を組み、不良化した者もいた。特攻のため薬物「ヒロポン」を与えられ、死を覚悟するも死にきれず、仲間は死に、戦後は死にそこないと罵られる。多くを語らずとも、若い特攻兵たちの心がどれほど複雑に傷つけられたかは想像に難くない。
「おじいちゃんは教員で仕事人間だったけど、私生児だったんです。最後、ガンを患って。ずっと話を聞きたかったと思っていた。ここ数年昔の亡くなった人たちのトラウマが解決されてない感じがして、でも思い出すことで癒されていくと寺尾さんが昨日言っていて、それを想いました」
直井さんは亡くなったおじいちゃんのトラウマのことを考えていた。犀の角はやどかりハウスを内包している。日々精神を病んでしまった人、トラウマを抱えた人が仲間にいたり、向き合ったりということが日常の中であるのだろう。死んだ人の、生きている間には共有できなかった傷。それは死んですこし和らぐものだろうか。死に損ないとかつていわれた特攻兵であれば、やっと大きく吐息をつけたかもしれない。死は生き延びた罪への遅すぎた贖いだと、そのように生真面目に考え続けた人もいたかもしれない。
「おじいちゃんとおばあちゃんは二人ほぼ同時に亡くなった。おじいちゃんの告別式の時、おばあちゃんが脳梗塞で亡くなって、おじいちゃんが連れて行ったねと」
一人の元特攻兵の死。すべては明かされぬまま、直井さんの胸にそれゆえの余韻を強く残した。どうすべきか、誰もわからない。ただ、そのことが皆に手渡される。MCでも話したことだが、私はライブを訪れる(らしい)目に見えぬものたちについて、色々な人から報告を受けるたび、次のように考えるようになった。死んだ人の多くはその存在を、その抱えていた感情を、生きている私たちに忘れ去られたくないと思っている、なかったことにはしてほしくない。だから、何の答えがでなくても、この場でみなが直井さんのおじいちゃんの人生について思いを馳せてみることは、それだけで意味があるのだと思う。思い、思いやる気持ちは伝わっている。

二人目は本田さん。昨日のライブを見ていない唯一の参加者だった。やどかりハウスに暮らす一人だ。
「今、上田に泊まらせてもらっていて、話を聞けば聞くほど行きたかった。みなさんの中に映ったものをこの場所に漂わせてもらいながら感じたりできたら、と思っています。さっきの話にもありましたが、自分にとって直近の大きなテーマはトラウマの連鎖。世代で繋がっていくことが気になって頭にあるようなところがあったので、今のことに関連してすぐに何かは言えないんですけど、みなさんのお話を聞かせてもらいながら、自分の中に浮かんでくるものを感じられたらと思います」

次の美里さんも、おなじくやどかりハウスのスタッフ。
「1月から上田にきて、犀の角ややどかりのことに関わっています。昨日は手伝いで入らせてもらい、後ろの隅で体育座りをしてステージを見てました。最初立っていたけど座り込みたくなって。ちっちゃい隅で嗚咽をもらすくらい泣いてました。「こんばんはお月さん」のところで色々崩れた感じがしました。自分が何かを話すとき、自分の中でなぜかまだわかってないけど、泣かないと喋れないことがあって、それがこう、全部歌に詰まってる感じ。昨日は泣きつかれて爆睡でした」
「こんばんはお月さん」は私の中で、「ガード下」すなわち路上の人の歌だった。それが、サントリーホールの公演で、日本兵たちが現れた(らしい)こと、翌日「まだ日本兵たちがそばにいる」状態の歌島さんとのやりとりをする中で、あの歌の中の「そんなはずじゃなかったんだ」というフレーズが彼らを引き寄せたことを知った。そういうMCをライブですると、「あれはただ失恋した男の無念の歌だろう」とSNSで書く人もいた。一般にはそう聞く人が多いのかもしれない。とにかく色々解釈を呼び起こす作品だった。が、美里さんがこの歌で「色々崩れた」という言葉を聞いて、また底知れないこの歌のエネルギーを感じざるを得なかった。歌っても歌っても得体のしれない力が秘められている気がした。
 
次は「クッション」という名前の人形を「大事な相棒」として持っているはるひさん。
「やどかりの名誉会員と呼ばれていて、半年間住んでいました。その中で映劇とか、上田界隈の人たちと仲良くさせてもらって。上田が大事な街になっていて月一くらい来ています。寺尾さんのライブは2回目で、一回目は渋谷の(ラ・ママでの)冬にわかれての、(細井徳太郎さんと)君島さんと一緒のときでした。昨日は「骨の姉さん」で泣き始めてしまって。家族関係で私はすごい悩んでいて、祖父母もまだ生きていて、死を経験したことが本当になくて、未知の世界です。どんなことをその時思うのかなとか、家族のことで悩んだまま誰かの死を経験するのかなとか色々思いました。話したい事がいっぱいあるけど、まとまらないのでひとまず」
「やどかり」なら半年間暮らしても90000円だ。あらためてすごいシステムを作り上げ、維持させていると思う。助けを求めた人が、ここで心身に充電をして、新しい人間関係を構築し、やがてスタッフ側にまわったり、別の街で生活をするために上田を去り、また戻ってきたりする。人生はそう簡単にリセットできない、と言われたりするけれど、こういう形での生き直しができることが希望でなくてなんだろう。場所を変えることは明らかに重要だ。でもみなお金がなくて躊躇する。その敷居を限りなく低く設定することの大切さを改めて思う。

「昨日はライブで、はーってなって、早く家に帰って布団に包まれたい、これ以上の刺激が入ってはもうだめだ、と思って早めに帰りました笑 音楽って本当にすごいと最近感じるようになった。何がこんなにすごいんだろう。「こんばんはお月さん」でもやられ、二人のセッションに立ち会えたこともすごいことだなと思いました」と語ってくれたのは瑞穂さん。
音楽の受け取り方、それによってどれくらいの刺激を受けるかということは人によってもだいぶ差があるようだ、ということを感じるようになったのは、長女を帝劇のミュージカルに連れて行ったりすると生の音の迫力に飲まれて、「すごすぎてほとんど記憶が飛んでる」ほど興奮する、というのを聞いたりする中で思うようになった。長女も繊細なタイプだが、大きな刺激を受けて「もうだめだ」と混乱したり、記憶が飛ぶくらい心が動かされてしまう人というのが一定数いるのだな、と思う。
「恵さんのおじいちゃんの話を受けて、小さいころ亡くなった母方の祖父のこと思い出しました。南佐久のならわしで8月1日にお墓参りをするんですけど、おじたちも70を過ぎて、祖父のこと、昔は「あんな親父は嫌いだった」って話をしていたのに、「百姓もして田んぼをやっててすごかった」という話に変わってきた。おじたちも祖父の姿を自分に重ねているというのもあるんだろうなと眺めている私がいる感じです」
この話は興味深かった。父親へのマイナスの感情が、年老いていく中でプラスに変化していく。この変化があるということに希望を感じた。「今」だけを見ると、見えている状況は変わらないように思えるし、感情も簡単に変えることはできないけれど、時が流れる中で少しずつ人が変化し、別な視点も持つことができるようになるということ。昔、父は自分の父親と仲の悪い時期があった。二人の決裂の風景は、幼い私の記憶にも残っている。学生運動の残り香を嗅いだような世代だった父が、戦時中どうして戦争反対をはっきりと言わなかったのか、と祖父にぶつけ口論となり、絶縁を言い渡した。みなで外食をしているタイミングだったが、父はそのまま出て行ったような気がする。2018年に父が死ぬ直前にインタビューをしたとき、「あれは俺がわかってなかったんだなあ」というので拍子抜けした。あの時だって40近い大人だったはずだが、まるで二十歳のころの自分を振り返るような言い方でちょっとおかしかった。実際、いつまでも二十歳のような青臭い、まっすぐな熱苦しさを持った人だった。その父が、いつの間にか変わっていた。年を取るというのは、全然悪いことじゃないなと思う。誰でもきっと、時を経て小さな経験が積みあがっていくと、少しずつ視野が開けていくのだ。気づかないうちに。もちろん、ごく深刻な虐待などを受けていた当事者の場合もそのように時の流れに伴って変化を得られるのかは、私にはわからない。けれども、そこにその人の視点が変わる可能性があるということが、ひとまずの希望ではないか、と思うのだ。

「昨日は眠れませんでした」というのはやどかりハウスなどでスタッフをつとめる元島さん。
「「骨の姉さん」が頭の中でずっと鳴ってて。「こんばんはお月さん」を聞いて、あの人はもう歌わせない方がいいんじゃないか、ヤバい人なんじゃないか、と朝話してました笑 寺尾さんの歌はずっと聞いてきました」
元島さんは、ある外国人の話をしてくれた。
「観光ビザで来て、法律で阻まれて滞在することができず色々大変でした。最後は要介護状態で、精神病院に警察経由で入院させて国に返したが、行政からは「優しくした責任を取れ」と言われたりしました。精神病院に面会に行っても、彼も一言も口をきかず、怒って「Thanks」と。どうしたらよかったんだろう。警察に引き取られていったとき、どこかほっとした。自宅に彼を泊めたとき、蜂が耳元に出るといつも言っていた。昨日寝ようと思った時に蜂が耳元にいるような気がして飛び起きた。神経が昂るとこういう感じだったのかもしれないと。初めての体験でした」
睡眠を奪い、「耳元に蜂」を感じるほど神経を昂らせたライブは、彼にとって良かったのか悪かったのか・・微妙な気持ちになるが、例にだされた精神疾患のある外国人のケースででてきた「優しくした責任」という言葉が耳について離れない。安易に助けなければ、彼も諦めてさっさと母国に帰っていただろうという、糾弾の調子がこの言葉にはある。しかしなんと貧しい言葉だろうか。優しさとは、本来責任を求める心性とは真逆の態度であり、だからこそ成立する言葉だ。その2つが組み合わされて使われていることの気持ち悪さ。法に触れていそうなら、求められても助けない。条件付きの優しさは本来、優しさと名乗れるものではない。別物である。
 思い出すのは、北九州で困窮者支援を続けるNPO抱樸で聞いた言葉だ。
「世の中条件付きの優しさは沢山あふれてるんです。~しなければここにいていいですよ。~できればこの制度が使えますよ、と。でも見た目にわからない軽い障害があったり、精神疾患があったりしてそういう約束ができない、しても守れない人も確かにいる。その人たちの面倒みてくれるところはほとんどない。だから私たちは、条件を何もつけないで受け入れようと決めたんです」
人が集団でかかわって生きるとき、規則やきまり、線引きが行われるのは自然なことではある。ただし、セーフティネットであるべき制度や団体においても、この条件付き優しさであふれているとしたら、そこからあぶれてしまう人がでること、それはもはやセーフティネットとして機能しきれていない、ということもまた容易に想像できる。「優しくした責任をとれ」とは、セーフティネットの一つとしてかぎりなく敷居を低くして様々な人を受け入れようという覚悟ある団体に対して、改めて無礼で不適切な言葉である。
「特攻隊の話もすごい良かった。やどかりハウスもここに駆け込んでいいよっていうと何百人も駆け込んできた。悔しいけど支援の世界ではいないことにされていた人たち。寺尾さんの歌は見えない存在を居ることにしてくれる。そこにちゃんと何があるのかということが見える。それに対して自分がどう変われるのか、ちゃんと見るということが希望だと思う。そういうことをいつも感じています」

次はこの日の記録メモを取ってくれていた秋山さん。
「寺尾さんの曲に救われてきました。体がかちかちになっていたけど溶けていって、見える世界の質が変わっていくような感じがした。声で自分の中の闇の塊が消化されていくような、声と空気に身体がほどけていく感じがありました。人間てこうなれるんだと。上田のみんなと共有できたのが嬉しい」
ライブ後早く家に帰って布団に入りたい、と思う人や、眠れなくなって耳元に蜂を感じる人がいれば、秋山さんのように解放や昇華のようなイメージの感想をくれる人もいる。それは結局、そこまでその人が生きた経験やわだかまりになっている感情がそれぞれに異なり、同じライブを聞いても、ぐったりしたり、ひどくかき乱されたり、逆に癒しを感じたり様々になるということなのだ。父が死ぬ前に手足の感覚が失われていったころ、突然「腕をさすって」と頼まれたときのことを思い出す。その人にとって「大好きな」お父さんであったら、人は喜んで、一生懸命さするのだろうと思うが、私の場合「最愛の、大好きな」というには父との間に距離がありすぎた。だから、その言葉にもものすごく大きな衝撃を受けたし、さするという行為も、しばらくするうちに精神的にへとへとになってしまった。父親の腕をさする、という同じ経験をしても、その感情はその人が経て来た経験や抱えて来た感情によって千差万別であり、歌もまた同じようなものなのかもしれない。

次は、「うえだ子どもシネマクラブ」との活動にも関わる三好さん。
「昨日のライブは別次元でした。終ったあと放心状態で、自分も他のお客さんも歌の力ってこんな風に浴びることができるのかと。年を取ってくるとそういうことに鈍感になっていく自分もいるけど、昨日はそういうところに戻れた感じがしました。上田でそれを目撃できてよかった。」
三好さんは、松本在住なので、斜里のサウンドトラックの録音も松本の「あがたの森文化会館 講堂」を使った。雰囲気も響きもよかったので、松本でのライブもそこでできないか、と相談をしたときに、自分は松本で主催をするほどの時間の余裕がないけど、上田なら寺尾さん好きな人増えてきてる感じもあるし、多分動いてくれるよ、と上田映劇とつないでくれた人でもあった。この日のライブは、私にとっても想像以上に大切なライブになった。君島さんとは行き違いがあって数年来疎遠だった。たまに私の曲をカバーしてくれている話が伝わってきて嬉しく思っても、それはどういうことなのかな、とわからないでいた。でも君島さんが6年ぶりにツーマンが実現したこと、一緒にセッションをできることをよろこびをもってステージで語ってくれたことに甘えて、ここ数年の経緯を私は本番のセッションのときに実は、と「うちあけ」た。みんなと共有させてもらって見守ってもらった。こんなライブ後にも先にもないだろうな、と思う。時がながれて自分の至らなさとか、小ささとか、傷つきやすさとかそういうものを、ちょっと離れて眺められる。それが年を取るってことであれば、全然悪いことじゃないなと思った。
 一周したところで、個別な「うちあけ」がぽつりぽつりと語られていく。元島さんからだった。
「今日娘を高校まで送るとき、しゅーしゃいんのアルバム聞きながら来ましたんですが、長女について気になっているのが、三女のことをずっと無視してるんですね。それが苦しすぎて、他の兄弟に話すのに一人だけ無視。注意しても「無理なんだ、しゃべれない」と言う。それ以上できることがなくて三女を寂しくならないようフォローするのが苦しい。長女に聞いても「無理なんだ」くらいしか言わない。一言でも醤油とって、でも言ったらきっかけになるんじゃないかと思うけど、言えない。三女は一時期荒れていて、感情のままに大きな声を出したりしていた。長女はそれが苦手」
我が家の長女も大声を出す人や、人が怒られている現場にいることが苦痛なタイプだからなんとなく想像がついた。その場はなんとかやり過ごしても、そのことに大きな怒りを抱えていて、あとでそれを伝えてきたりする。その苦痛は、苦しみを通り越して怒りになっているのだ。人の知覚には大きな差異がある。色覚もそうだし、聴覚もそうだ。元島さん本人がどうできることでもなく、難しい問題ということは分かった。けれど、どこかに糸口があるとすれば、もう少し時間がたったところで長女と三女が互いにどう感じていたか、そして今はどう感じているか、お互いの関係をどうしていくのがいいか、ということを率直に伝え合ってみるしかないのかもしれない。

瑞穂さんが話を継ぐ。
「娘さんの話を聞きながら思ったのが、パートナーと彼の息子と一緒に住んで1年なんです。娘さんもいるんだけど、ママと住んでる。月に2,3回パパのところにも来る。すごい無邪気でパパのことも大好き、私のことは「瑞穂さん」と認識していて、パパの彼女ということも承知している。来年小学校にあがるけど、ちょっと奇妙な状態。自分はママと住んで、パパの家に遊びに来たときはママじゃないけどママ的な、でもママじゃない人がいる。その感じは戸惑いもあるだろうなと。今の時点で彼女の葛藤というものは見えてこなくて、同い年の友達くらいな感じで一緒に遊んでいる。でもたまにママって言ってくる。でも、何?っていうと、ママじゃないでしょと言われるときがある。彼女の中の戸惑いが少し見える感じがある。私と遊べば楽しいけど、ママが一番大好きで、自分はパパとママの娘というのがある。私は家族に近いけど、他人でもあるということを意識しながら揺れ動いていくのかな。この先彼女が何を感じてどう思っていくのかを見守っていくんだろうと思います。私自身、うっと思いながらも続けていくのかなと」
なんとなく、血の繋がらない娘さんがママって言ってしまったときの情景が目に浮かんだ。小さい子の相手をしたとき、同じような経験がある。そのとき確実に言えたのは、子供が遊びの世界に夢中になっているということだ。それで「いつもの呼びかけ」がふと口に出る。だから、瑞穂さんの話を聞きながら思ったのは、お子さん以上に戸惑いが生まれているのは瑞穂さんの中に、なのかなということだった。そのことを瑞穂さんもすでに気づかれていた。
「彼女の葛藤と言ったけど、それがあるのは私なのかな。私の中の葛藤。これは私の中で大事に扱っていこうと思います」
立場、立ち位置に拘りすぎずに、目の前のその子と向き合って笑いあえていれば、子供の柔らかな心はまっすぐにその人を捉えてくれる。「瑞穂さんは瑞穂さん。大事なひと」ってその娘さんが笑う未来が見えた気がした。

「ここにいる皆さんと共有してみたいと思ったことがあって」とはるひさん。
「家族のことで色々悩んでいて、2年くらい連絡を取っていなかった。高校生のとき家を突然飛び出してやどかりハウスに来て、そこから連絡はとってなかったんです。それが最近父とやりとりをし始めて、手紙を送り合う中で、どういうことが嫌だった、ストレスに感じていたことを教えてほしいと言われたので伝えてみた。向こうもそうだったんだ、と謝られた。だけど、ここからどうしていけばいいんだろうと思っている自分がいる。嫌だったことを言ったからって全部解決、仲直りというかんじでもない。昨日寺尾さんのライブに行って、そういう方向から感じられるものもあるんだと思ったんです。真正面からでなく違う角度からも向き合えるんじゃないか。寺尾さんのライブに家族の誰かと行ってみようかなと思った」
家出をしたところから、お父さんと少しずつ向き合えているはるひさん。距離をおくことの大切さを感じる。そして、謝られたけれど完全に仲直りもできない状況で、何かの体験を共有しようとすること、つまり、面と向き合う以外の方法で、時間を共に過ごしてみることはとても有効だろうという気がした。

「私は離婚してるんですけど」と直井さんが話を継ぐ。
「そのことを両親にだけ直接伝えられていないんです。なんて伝えたらいいか全然わからない。家族というものがすごく苦手で、特に母親であることを全部放棄してて、たまにやりとりはしているけど、長女は実家で両親と暮らし、下の二人は夫と暮らしてます。言おう言おうと思うんだけど、言えない。でも三好さんの映画に両親と行ったらいいんじゃないかと、声かけができたんです。家から8ミリフィルムが見つかって、シネマクラブでやろうとしていることを伝えるのに、映画見に行ってよと言ってみたんです。まだ全然話せてないけど、両親死んでからじゃ遅いよなと」 
私も距離のあった父がガンでいよいよたおれる直前、さすがにきちんと向き合わなくてはいけないと感じた。けれど、娘と父としては難しかった。だから、インタビューをする人とされる人という形をとった。聞き書き、人の話やその人の半生の物語をきくことは私がしばしば行ってきた仕事の一つだったからだ。人と向き合うというのも色々ある。映画でも音楽でもいい。真向いの席より、カウンターの方が話しやすかったりするみたいに、たまに横顔をちらっと見るくらいの角度で共通の体験、話題から話しをしてみたら、遠回りしながらもそれが意外とその人の本音を聞けたりするシチュエーションなのかもしれない。もし、そのツールとして私のライブもお役に立てる機会があるのなら嬉しいことだ。

三好さんが家族について口を開いた。
「うちは子供が4人いて、そとからみたらすごい幸せで理想的な家庭だと思うんです。10年以上、家族が並んだ1枚の写真を年賀状にしてだしていました。冷蔵庫に貼ってるよ、という人もいるくらい素敵な家族像がそこには写ってます。自慢の年賀状でした。それが今年はじめて途切れたんです。娘から今年はつくらないの?と言われたんだけど、年末にインフルで寝込んでいたり長男がロンドンへ行って家族が揃わないというのを理由にしてつくらなかった。 昨日、男の未練を歌った歌(「ある告白」)のような気持ちには僕自身なれないと思いながら聴いていました。今53才なんですが、50才になった瞬間に世界の見え方がガラッとかわって、それまで家族を中心にいろんなことを考えていたけれど、ここからは自分を中心に考えようと思った。でもそれが受け入れてもらえているのかはわからない。今、どこに進むべきなのか、もやもやしている。昨日ライブを見て、僕自身はより自分自身というものを一番に、自分がちゃんと立てる方向に行きたいという思いを強くした」
意外な話だった。三好さんの年賀状は私も何度かいただいていて本当に絵にかいたような幸せそうな家族だと思っていた。でも、どれだけ分かり合えたはずの二人でも、時間と共に人間は変化する。反比例するみたいに、人は永遠に憧れる。だからそのことが寂しい場面もあるけれど、本当は変化することは自然なことでもある。
「どうしたらいいだろうって、みんな悩んでるからね。やどかりも駆け込んでくる人はほとんど家族問題」
と元島さん。やどかりハウスを経て、お父さんと手紙のやりとりをするにまで至ったはるひさんは、お父さんに今どういう感情を持っているのだろう。
「今この状態ではわからない。これから許せるのかどうか。許せるかといえば、一生許せない。でもそういう気持ちを抱えた状態で、どういう関係性を作っていけるんだろうというところにシフトしている」
重みのある言葉だった。一生許せないという消しがたい気持ちを認めたうえで、新しい関係性を予感している。熱すぎて触ることさえできなかったどろどろの鉄が、温度を大きく下げ、これまでになかった新しい形に固まろうとしている、そんな状況だろうか。
 まだほとんど発言をしていない本田さんはどうだろう。「トラウマの連鎖」とだけ語った家族に対しての感情の現在地が気になった。
「去年自殺未遂をしちゃったんですけど、そのタイミングで憎しみの連鎖を家の中に見て、父は亡くなった祖母のことを死んでも許せなかった人でした。同じ墓に入りたくないと、死んでも許せていない。自分はそうなりたくないと思ってきたのに、自分も憎しみを抱き初めてしまったタイミングでした。それに気づいてしまったとき、連鎖を終わらせるには個人としての自分を焼き尽くす、終わらせないといけないんじゃないかと。その時、元島さんに死んでも終わらないよと言われたのを覚えているけど、すごく憎しみが、多分あります。そのことも受け入れられていない。押し込めようとする。なかったことに本当はできないけど、なかったことにしようとして、でも本当は変わっていけるという話、きっと本当はあるだろうし、変わるとしたら、生きている中でそうなっていく、そういう方に視野を向ける必要があるということは分かりながら、自分の性質なのかわからないけど、死との親和性がもともと高い。死ねると思った時にはじめて安心しちゃって、意識がなくなるという時に。生きていく中で変化するというのはいろんな要素が組み合わされる必要があって、すごくエネルギーが要る気がします。自殺未遂したのはやどかりにきてちょっとして。終わらせる前に、という気持ちも若干あったかもしれない。大学出てからメンタル崩れて入院して故郷に送り返されて」
西洋占星術のホロスコープによれば、その人のおおまかな性質というものは、生まれた瞬間に決まっている。もちろんそこからの知識を得ての変化や、努力による運命の転回は人それぞれあるのだろうが、~しやすさ、あるいは~しにくさ、という傾向が人によって千差万別であり、これによって生きやすさ、生きにくさも大きな違いをもって現れてくる。だから、極端に言えば、「過去は過去、未来はこれから自分が作るんだよ!」と言われたときに、「たしかにそうだよね、しんどいけど、なんとか前を向いてみるよ」と呼応できる人もいれば、「それはわかってはいるんだけど、やっぱり難しいよ」という人もいる。意識が過去に向かいやすい人は後者になりやすいし、もともと未来を考えるタイプの人は前者になりやすい。私はそのことを、ホロスコープに詳しい長女から教わった。そうして「自分のとらえ方次第で人生はいくらでもよくできる!」と自己責任を高らかに掲げるような自己啓発的な物言いが世の中にあふれていることの害悪も改めて考えさせられることになった。たかが占い、ではあるが、人間の感情や性質が「どれも似たり寄ったり」なんてわけはなく、そのバリエーションなんて、無限にあると考える方がリアルに近いだろう。「自分のとらえ方次第で人生はいくらでもよくできる!」という精神主義を簡単に信じられる人たちに、そうしたくてもなかなかできない人たちのしんどさはなかなかわからないだろうし、そうした人たちがたしかに存在することさえしっかりと認識はできないだろう。
本田さんが、「本当は変わっていけるという話、きっと本当はあるだろう」という時、その明るい方に本当は向かいたい、そちらに向かうことでバランスを取りたい、という切実な思いを感じる。自分を終わらせることで憎しみの連鎖を断ち切る、それは何か美しい自己犠牲のようにも感じられる。本田さんが死ねると思ったら「はじめて安心しちゃって」というように、死ぬことで自分が楽になれ、憎しみの連鎖も終わるのなら、一石二鳥のような錯覚も覚えてしまいそうだ。でもそれは「死んだらすべて終わる」のだとしたら、だ。私は自分では何も見えないが、見える人たちの話を総合するに、私のライブに沢山のものたちが現れる(らしい)のは、何かを伝えたいからだろうと思う。サントリーホールに現れた日本兵たちもそうだし、北陸のライブで現れた、悲しみに満ちた夜叉として現れた母親たち、福岡であらわれた河童たちもそうだろう。命はみんな、ここにいるよ、ここに確かにいたんだよ、と訴える。死んでもなお。
本田さんが言うように、変化が起こるとしたら、さまざまなタイミングがかみ合った時なのだろうと思う。でもそれらがかみ合った時、そこには本田さんがいま憂慮するほど大きなエネルギーはいらない、そんな気がする。状況も人の心も、流れるように知らず移ろう。時がもっともよい薬であると、昔の人も言った。変わらなければならない、ではなくて変われることもあるかもしれない。そのことを希望として高々と掲げなくてもよい、ただポケットにそっと忍ばせておく、くらいの感覚で、心にとどめておければいいのかもしれない。私には想像もつかないくらい深い葛藤を抱えた本田さんにとって、それがお守りのようなものになれるのかどうかもわからない。けれど、本田さんがぎりぎりのところで「本当は変わっていけるという話、きっと本当はあるだろう」と皆の前で伝えてくれた姿が、私にはたしかに光のように感じられた。
 私自身は、父が死んだとき、ほっとしたという感覚が強かった。それは父が嫌いだったからでも、憎かったからでもなかった。父と距離があった、そのこと自体が重荷になっていたのだ。もう死んだら傍にいる、と思う事ができた。解放感があった。
「たしかに繋がりって物理的なものだけじゃない。家族とは同じ屋根の下にいても繋がってる感じが何もない。でも一緒に住んでなくても心理的にすごく繋がっているという感覚がある人もいる」
と本田さん。常々、人が生きる意味は極言すれば人生を笑って楽しむため、だと思っている。
そのために家族が邪魔なら離れるべきだし、家族でなくてもそれくらい近しい感覚のある人となら一緒にいればいい。本田さんの言うように心理的な距離の近さを信じることができるなら、共に暮らす必要さえないのかもしれない。

「一時期、母が私のことをなんでわかってくれないのか、と思ってて」と言葉を継いだのは瑞穂さん。
「母も祖父の悪口をずっと言っていて、それも理解できなかった。親の悪口を言っていいと私が思ってしまうじゃんと。祖父についての悪口は、子供の時に真っ暗な中お酒を買いに行かされたり、飲めば机をひっくり返す。でも周りからは聖人扱い。最近叔父たちがいっていたのは、戦争の話はできなかった。叔父たちも悲惨な経験だったんだなと感じ取っていたのかなと。祖父がなぜそう暴れたりしていたか、と思いを巡らせると、戦争に行って、そこで見て来たものは私たちに想像しえないことで、話しても伝えきれないと思ったのではないかなと。その想像しえなさを想像します。自分の中にも葛藤はあるけど、母がそこから受けて来たものがあるのだろうと。彼らが悪いわけではなかったという落としどころができて、母に対しての葛藤みたいなものから離れられた」
聞いていて精神科医の蟻塚亮二さんの言葉を思い出した。蟻塚さんは南相馬で震災のトラウマに苦しむ人々に向き合ってクリニックを開いているが、その前は沖縄で沖縄戦のトラウマに苦しむお年寄りの話を長年聞いてきた、という先生だ。その著書の中で読んだエピソードは、温和な性格だったお父さんが、震災後怒りのスイッチがはいると数日怒っているような別人になってしまった、というケースだった。家族に精神科を勧められて、蟻塚さんに出会う。話を聞いていくと、根底にあったのは「震災の時、ものすごく怖かった」という恐怖だったという。そうした強い恐怖を、感情として表出させる場や、人とシェアする場を持てない場合、その恐怖はのちに怒りとして出てくるのだという。蟻塚先生はだからこそ、震災の話題を避けるのではなくみなで語り合うような場が必要だとして、そうした会も定期的に開いている。多くの日本の兵士が、戦場で心に傷を負った。国のために戦ったと戦友と集い、軍歌を歌って振り返れる人もいれば、自分のした殺人や直面した恐怖、戦友たちは死に自分だけが残った罪悪感に長く苦しむ人もいただろう。南方の極限状態では人肉を食べたケースさえあったのだ。瑞穂さんがおじいさんの口から語られなかったことや、語れなかった感情に想いを馳せることは、おじいさんの虚しさや苦しみに寄り添うことでもある。
「結構、問題のある家族の歴史をさかのぼると戦争にたどり着くんですよ」とは元島さん。「おじいちゃんが戦争に行ってて暴れる。唯一その子のことは可愛がっていたけど、機嫌よくさせる役割をその子が担うようになってしまった。色んな事に過敏になって、何かあると自分のせいだと思い込んでしまう。カウンセリングを重ねる中で、祖父の戦争のトラウマが孫のその子に受け渡されてる。戦争が全然終わってない。僕らの目の前にいつもある、という感じがしています」
戦争の傷は終わっておらず、ながらくたくさんの家族の形を歪めて来たということ。支援に関わる人は、そのことを感覚として知っていた。瑞穂さんのケースのように憎しみや嫌悪の対象となってきた家族について、時代を少し遡ってその人を眺めてみることは一つ別の視点をもたらす可能性がある。

「最近はおじさんを愛でたいと思うんですよね。おじさんが恐怖を話せない、といった状況を作ってるのは私たちで、それをどうにかできないかなと」と秋山さん。
「やどかりでお茶会はやってるけど、男性は語れないから。聞いてくれる女性の存在があって、今日みたいだと安心感がありますね」と瑞穂さんの言葉に、元島さんが答える。
「どっかマウントとってしまうというか、安心して自分の弱みを出せない。鼻毛が出てる指摘されたとき、男性がどう反応するかという実験をすると「そんなはずはない」と否定する場合が多いらしくて。素直に認められない。発言について、答えをもって発言しないといけない、中途半端では発言できないという思い込みもあるが、思いついたことを出していいという場も大切。それを誰かが拾ってまた返す。やり取りを通して安心するという感覚を体験することでしか、溶けて行かないものがある気がします」

 回も終盤に差し掛かっていたが、私は美里さんが「こんばんはお月さん」のどこのフレーズにうちのめされたのか、それをもう少し詳しく聞きたかった。
「ガード下のところです。その風景が思い浮かんだ時に、本当のガード下じゃなくても社会の暗いところに居させられている人たちの顔が浮かんでくるというか、その中で空を見上げてこんばんはって言ってるような。その風景が自分の中ではグッときます。なんで自分がそうなるのかはわからないけど」
私が路上で生きる人、とひどく限定的に捉えていた「ガード下」という言葉は、たしかに「日の当たらない場所」とも言い換えられる、と気づかされた。社会の底辺に近い場所で、みじめさに耐えてなんとか生きている人たちのいる場所。美里さんは「なんで自分がそうなるかはわからない」と言ったが、自らが歩んだ半生も「日の当たらない」「声の届かない」といった形容をしたくなる部分があったのかもしれない。私は、この歌の「そんなはずじゃなかったんだ」というフレーズに呼応した日本兵たちのことも思い出す。2重3重の意味で「ガード下」という言葉が身に迫って来た。「そうさここはガード下 まるで逆立ちでもしてるみたい」。半円のアーチの天井を眺めながら寝っ転がるガード下。どっちが上でどっちが下だ?私の中に、地下の国で日本兵たちが地下側の半円アーチの天井を眺めて寝っ転がる絵が見えた。私は生き残り、取り残された者としての「戦災孤児」を歌ったが、戦争で不本意な死を迎えたものたちもまた、黄泉の国に「取り残された」者たちではなかったか。この歌は時代を越えて、それぞれの場所でうずもれた声たちを集約する力があるのではないか。美里さんの指摘は、私にとって大きな意味を持った。そして、どれほど現実にうちのめされても、お月さんを見上げて呼びかけ続けるこの男に魅せられる。空を見上げなきゃ、月は見えない。辛いけど、やっぱりそっちの明るい方に向かいたい、という祈りのようなものを感じるのだ。男が月に呼びかけるとき、彼は無力ではない。不安定さを孕みつつも、生への憧憬が、渇望が、この作品の核になっている。それが様々な人を引き付ける磁力にもなっているのだろう。直井さんはガード下をもう少し違う角度でとらえた。
「世界には存在していることが耐えられない瞬間がある。橋の下とかガード下にいる感覚のほうが救われる。太陽の下より影の下の方が落ち着くように」
直井さんは昨日Aさんという上田の街中でよくみかけるおじいさんの話をしてくれていた。かたくなに路上にこだわっていた方だったけど、最後自分の身体が弱ってきたのを察したのか「家がほしい」と言い、行政の人も動いてくれて終の棲家を見つけた。でも家に入った途端人とのつながりが薄くなってしまったからなのか、スプーンも持てないくらいになってしまって、ちょうどライブの日に病院に搬送されてしまった。
まだ元気なころ、Aさんの存在は多くの人に認められていた。
「Aさんは社会にすごい意思表示をしながら街に存在していた。地球はホームだと言って、トイレは公園、冷蔵庫はツルヤ、お湯はコンビニ」
「Aさんがちらかすから商店街のベンチをなくすという動きもうまれたが、ぼくらはむしろベンチを増やした」と元島さん。
Aさんのことを面白いと親しみを感じる人がいる一方で、ゴミをちらかして汚い、迷惑と捉える人ももちろんいる。大事なのは、一つの色に染まることでなく、それぞれが勝手に動くことなのかもしれない。ベンチ撤去に抗議、反対する前に、すぐにベンチを増やす。行動には行動を。ばらばらな世の中で、でも面白がって心寄せる人がいれば、その人はなんとか生きていける。人生の後半に若い世代と繋がれることができた、Aさん。きっとその時間を楽しんでいたのではないだろうか。
さて、このuchiakeは最後まで答えの出ないつぶやきが寄せられた。違うテーブルでなんとなく参加してくれていた平田さんだ。
「家族ってほんとに難しい。妹が出産して生活保護を利用しているが、色々手放さなきゃいけないものがある。車も売れと言われたが手放したくないから一時的に名義を貸してくれという話があり、自分は不正受給になるから協力したくなくて、関係がぎくしゃくして何か月も連絡を取っていない。車に乗る必要があるなら、堂々と裁判すればいい。それをこそこそやるのは違うだろうと思う。やどかりでも似たような事例は聞くが、妹のこととなると、そもそも避妊せずに妊娠したのもいかがなものかと、審判的な態度になってしまう」
地方では車も生活の命綱と言えるが、妹さんが暮らす地方都市は交通網も比較的あり、手放す必要があるとのことだった。受給のために、便宜を図ってやるかやらないか。このあたりは人によって考えが分かれるところだろうという気がした。しかし、やるなら裁判してやれ、という実直な考えの平田さんには、妹さんのやり方が全く受け入れられないようだった。人間譲れないところというのは誰しもあるので、妹さんには加担しないということで、距離ができても仕方ないだろうと思われた。これが正解、という答えはだしにくいが、平田さん自身が語ることで少しでも落ち着かない気持ちを整理できるきっかけになればいいなと思う。
 回の終わり、「芋騒動」の話題になった。なんでも、じゃがいもを人々に配りながら行進するのだという。ユーモラスな行動には、熱い思いが込められている。うえだ子どもシネマクラブと上田映劇、犀の角、やどかりハウス。ゆるやかに繋がりながら広がった彼らの活動は決して内に閉じていない。街に呼びかけ街に根付きながら街を揺さぶる。「芋騒動2025 マニフェスト」の最後はこのように終わる。

芋を植え、鍋を囲もう。 音を鳴らし、色を塗り、仮装して、なりたいものになってみよう。 自分の言葉で語りあおう。 楽しもう。
私たちには、この時間が必要だ。
みんなで明日を生きるために。
私が私で、あるために。
私たちはいまここにいる。

Uchiakeの記 vol.7 射水篇 その3

Uchiakeの記 vol.7 射水篇 その3


1人目 BTSロスから抜けきれない新聞記者 タジリさん
2人目 歌いたい男性 ホリエさん
3人目 自分でも「語りの集い」をやりたいフリーライター マエダさん
4人目 演歌歌手になりたい高校生 ハシモトさん
5人目 「楕円の夢」を聴けなくなった作家 アイダさん
6人目 今年お母さんを見送った写真家 タケダさん
7人目 役割を「演じる」ことに疑問を感じるソーシャルワーカー ワタナベさん
8人目 満員電車への疑問を禁じ得ないサラリーマン ラスカルさん 
9人目 明日が来るのが怖くてしかたがない タケノウチさん
10人目 久々に大人の集まる場に出てこられたお母さん アライさん  

7人目 役割を「演じる」ことに疑問を感じるソーシャルワーカー ワタナベさん

富山にきて3年半だというワタナベさんは、「どっちかっていうと盛り上げる話より、しーんとする話が好きで、そういう場じゃないと行けない」タイプ。吉祥寺での初回のuchiakeに参加してくれた納棺士のキクチさんに薦められて今回参加した。過去15回転職を繰り返し、お金が溜まると辞めていたワタナベさんは、初めてクビになり心は荒れていた。「なんか誰とも会いたくなかったけど、たまたまソケリッサのとこに行ったら、"あ、そこに居場所があった"と思って。で、上野公園とか通ったりして。で、この前富山来た時に、ソケリッサの人たち遊びに来てくれたりして、コイソさんからMV撮りなおしたいとか色々話を聞いて。いろんなところで寺尾さんの話を聞いてはいたんですけど、なんかみんな友達みたいに話すんですよね。で、なんか面白いなって思って。
歌を初めて聞いたのは、4年前にソケリッサのワークショップに行った時に、たまたまそのCDが流されていて。で、一緒に踊っておられて。その時にコイソさんがすごく蝶々みたいに見えたんです(笑)。で、その時に流れてたのが、その時に曲名全然知らなくて、初めて聴いたんですけど。それが多分"たよりないもののために"だった。帰ってから調べて、あ、多分これだって思って。なんてきれいな曲なんだろうって思って」
コイソさんは、「楕円の夢」MVにも参加してもらっている、長身でひょろっとしたおじさんさん。中性的でやわらかな動きがひときわ目を引くソケリッサメンバーだ。ワークショップでワタナベさんは、コイソさんとペアになったという。
「今までは自分が見られたい自分っていうのしかあんまり考えたことなかったのに、コイソさんとたまたまペアになって踊るときに、お互いの動きを見ながら踊るっていうのをやったんです。見られたい自分じゃなくて動きたい自分を考えるっていうのが初めての体験だったんですけど。うわぁって思って。で、その"たよりないもののために"の歌詞の中に、演じることがすべてなんてそんないらないって。「いらない」ってハッキリ言ってくれたのが、もうほんっとにそうだよな!って思って(笑)。たしかにたしかに!って、なんかスーって、スッキリしたんですよね」
人は誰でも、多かれ少なかれ、場所や相手に応じて適切に自分を「演じる」側面はある。それでも、それが本人にとって比較的自然にできているか、違和感や苦痛とともに「演じている」ことを意識して生きなければいけないかでは大きな違いがある。そういう人にとっては、「人生なんて演じるもの」という言葉は、いかにも「真実」のような重みをもって背中にのしかかってしまうのだ。それを「いらない」という歌詞に「スッキリ」したワタナベさんもまた、演じることに疲れている人だった。uchiakeのイメージのきっかけをもらった汽水空港の森さんのワークショップなどにも足を運んでいたという。色々つながって「これはもうuchiakeに行くしかないんじゃないかって、よくわからないものが働いた」という。

「今日話したい話は、演じることがすべてって言うのが、私やっぱり問題だとすごく思うんです。私精神科の病院でソーシャルワーカーやってる時期もあって、福祉関係の仕事してて、そこで働いていると息苦しくなって辞めるって言うのを繰り返して、今自営で、11月まではとりあえず自営でやってるんですけど。なんかその精神科の病院って、演じてる。看護師の役を演じてる人、医者の役を演じてる人、でも患者の役を演じてる人は、なんか演じてるっていうよりも演じさせられてるって感じが私はしてて。で、臨床心理士を演じてる、で、それぞれみんな役を演じてて。本当に病気ってあるのかな?って思ったんですよね。なんか、やっぱり私はそこがすごく腹が立って、そのことについて話題にする場がやっぱり好きっていうか必要だなと」
思い出したのは、坂口恭平の『徘徊タクシー』という小説だ。認知症のおばあちゃんを認知症として規定して描くのではなく、記憶と現実世界をまたぐ存在としてとらえ直したような物語だ。認知症を健全な状態ではないマイナスと捉えるのではなく、その人そのものと捉えて対話をすることで導かれる世界がある。病院にいけば認知症は患者として扱われる、医師は医師として質問し、問題行動などが多ければ薬を出すこともあるのかもしれない。しかし、それは本当に「まとも」なことなのか?その人に向き合っているということなのか?という強烈な疑問をワタナベさんの問いから感じる。私は、以前本で読んだ、訪問看護師と病院の看護師との違いについても思い出していた。病院の中での看護というのは、色々な規則に縛られてしまい、自由度が低い。けれど、訪問看護の場合は、患者さんと一対一になるので、最後にたばこが吸いたいと言われればこっそりOKも出せる。実は患者さんと密に向き合え、家族とも連携が増えるので、やりがいがあるという。その話をすると、ワタナベさんは、少し違う角度で話をしてくれた。
「集団の中で、やっぱりその個を大事にしようとすると、クビを覚悟でとか、いろんなものを背負わなきゃいけないと思うんですよね。ただ、病院の外に出てフリー(?)みたいな仕事であっても、やっぱり規則に縛られてる人はいるし。もちろん自由度が高くてやれる、っていうのがメリットで動けるっていうのを、信念を持ってる人ならいいけど、おおもとの母体があって動いてると、なかなかそこの、実際には見られてないのに、操作されてる、管理されてるって言うのは変わらない場合もあるから、ほんとに人によるっていうのがあるなと...。しかもそれも組織を離れたとしても、他の世間の目が気になってできないっていうことが起こると思うので、なんかいろんな単位で、人からどう見られているかって言うのを、より精査しないと、やっぱりすぐ飲み込まれて、見られたい自分の方に行ってしまうなっていう危険性は感じます」
だんだんわかってきたのは、ワタナベさんのこの問題意識は、周りを気にしてしまうご自身に端を発しているようだということだった。
「今回のuchiakeの予約の日も10時に開始だったので、絶対忘れると思って予約送信にしたんです。でも10時に予約送信すると、なんかガツガツしてるって思われるかなと思って(笑)。10時6分に設定して(笑)。ちょっと迷っていれましたって言うのは何分だろうって(笑)。初めてくる場所だし、そういう、なんか、見られたいっていうか。常に私そうなんです、ちんけな人間で。ほんとにいろんな風に見られたくて、賢そうに見られたいとかいっぱいあるんですよ、沢山。それをひとつひとつ排除していけたら楽だなあって思うんですが」
「ちんけ」という言葉を使われたが、少し意外な気がした。ここまでの話からは、専門職をふくめての転職を繰り返し、ソケリッサや汽水空港のワークショップに参加したりと、意志を持って自由に生きている人のように見えたからだ。プライベートでは15年の結婚生活を経てようやく離婚したという。
「もうちょっと早く離婚したかったんですけど、やっぱり無理だったというか。世間体もあるし、義理の父母も悪い人じゃなかったし、そこに縛られました。嫌いじゃないけど好きじゃない、価値観が合わないって言うのを言えなかったんですよ。ずっと優しくしてくれたし料理も美味しかった(笑)」
嫌いじゃないけど好きじゃない。意外とそんな感情で一緒にいる夫婦もいるのかな、と思った。ママ友は数えるほどしかいないが、その一人も「夫はATM」といってはばからなかった。女性に経済力がなければ離婚のハードルは上がる。近年離婚率が増えているのは、経済的に自立する女性が昔より増えたことは明らかだろう。そうはいっても、子どもがいると教育費の高いこの国で、やはり離婚のハードルは高い。「ATM」発言の裏には、家族を維持するために「好きじゃない」人とそれでも一緒にいる事情が透けて見える。ワタナベさんがなかなか離婚を決意できなかったように「嫌いじゃない」という情が残っていればそれでいい、と割り切って考える人も多いのかもしれない。けれどワタナベさんはやはり振り切った。
ちょっといいですか、と演歌の青年ハシモトさんが口をひらいた。
「自分がさっき言った歌のことにすごい近い話だなあって思いました、聞いてて。こう見られたいって、自分もその気持ちがすごくわかって。なんか不安な気持ちが付きまとってる感じなのかなぁって思いました。ちょっと不安があって、心理学用語みたいなので、自分軸とか他人軸っていうのがあるらしくて。自分の場合、昔、他人軸って言うやつで、今はわかんないんですけど。他人軸って言うと、人の言動とかにすごい寄せちゃったりして、自分がもやもやするっていう。ただ、社会的には均一になっていく、その輪はできるけど、個人としては違和感が残ったり好きなように生きられないっていう人もいたりして。自分の場合もその他人軸だった時期があって、それがすごくこう嫌でモヤモヤしたり、当たり散らしたりしてたので、なんかすごい近いものを感じるなぁって思いました。」
ハシモトさんが「自分軸」に寄っていけたのは漫画家の田房永子さんの作品『母がしんどい』に触れたことがきっかけだという。
「毒親を題材に書いてたりしていて。その田房さんは一応親と離れた後、彼氏さんとかと付き合っても、付き合った彼氏さんがすごい罵ってくるようなパワハラ・モラハラ魔で。その人と別れた後付き合った彼氏が良い人で結婚までいったんですけど、その結婚後、ちょっとしたことで彼氏さんにキレちゃうようになっちゃうんですね。日常生活生きてく中で、ちょっとこう反応が薄かったりしたら自分は嫌われてる、みたいに感じちゃって。被害妄想って言えばそれまでなんですけど。「ごみ捨ててないよ」って言われただけで、「ごみを捨てないお前はダメだ」みたいな、っていうふうに受け取っちゃって。で、それがモヤモヤするっていう。その内容を、不安だからっていうのを、お母さんに伝えられたんですよね。こういう意味があって、こういうことをしたんだって。この人はこれが嫌で、自分を大切にしようと思ったんだ、っていうのを、うちの母に理論的に伝えられたっていうか。他の物事の理論的なことだったんですけど、それを自分の中身にもちょっと投影できたっていうか。その手順を踏んで、自分の思いをちょっとずつ話せるようになったっていうか。今でも不安になっちゃうんですけど。でもだいぶ、切り替えられたかなぁみたいな。だからちょっとすごい近い感じがして」
「高校生とすごい話ができてうれしいです、ありがとうございます。なるほどと思いました」と、ワタナベさん。
自分にまとわりつく不安には色んなものがあるだろう。おかしい人と思われないか、嫌われないか、馬鹿にされないか。そういう不安があるうちは、何かを過剰に守ろうとしたり、人の行為や言葉に必要以上の意味を深読みしてしまったりするのかもしれない。それはハシモトさんの言うように「他人軸」で生きてしまっているということなのかもしれないし、そうした不安の根っこをみつめて意味をほぐせていったときに、はじめて「自分軸」に近づいていけるのかもしれない。

8人目 満員電車への疑問を禁じ得ないサラリーマン ラスカルさん 

「自分は真逆で、人に、人からどう見られてるかあんまり気にしないっていうか。どっちかっていうと全然好き勝手やってきて。自分もあんま話下手っていうか(笑)。話をするのは好きなんですけど、ぼんやりと話したり。若い頃まぁちょっと、辛いことが。で、30代の10年間はもうほんとに社会と繋がって生きるのをやめて、ひたすら内に籠ってっていう。音楽は好きだったんで、一応聴いてて、それも惰性で聴いてた。で、とあるきっかけで、まぁ寺尾さんを紹介してもらったチャッツワースさんって加古川にある紅茶屋さんなんですけど、そこの店主の方に「音楽がつまんなくて」みたいな話をしたら、「対面で音楽を聴くっていう環境で一回聴いてみたら」って。で、寺尾さんを勧められて。たしか名古屋だったかな?一番最初。で、その雰囲気に惹かれて。それから何回もライブ見に行くようになって、日々の生活の中で歌作っているって言うのが目に見えたっていうのが、結構面白くて。それですごくライブにはまるようになって、で徐々に自分の心も人と話すっていうこと自体が楽しくなってきたりとかして。今40代、今年50なんですけど、40代それで結構楽しく過ごせたっていう感じがあって。最近悩みっていう悩みがなくて(笑)」
いきなり歌い手冥利につきる告白だったが、ラスカルさんは、随分長いこと全国あちこちの会場に地元のお菓子を持って駆けつけて下さるお客さんだ。出演者だけでなく、会場の人にまでお菓子を持ってきてくれる気配りの人だ。ラスカルさんの若いころの「辛いこと」についても、2015年に「楕円の夢ツアー」のソケリッサ帯同のためのクラウドファンディングのリターンの曲作りの時に少し伺っていて、それを踏まえた一曲を作ったことがある。その後、さらに詳しいことをお手紙で頂いて伺って、沁みるように読んだ覚えがある。ひょうひょうとした語り口の一方で、繊細な感受性のある人だ。
「独り身だし縛られるもんもなくて。人との関わり方ももしかすると、ここ超えると、めんどくさくなるってところで引いてるっていうか。若いところの経験でそういうことを意識的にやっているから、ほどよいところで止まってる。あんまり深い関係にはならなくて、お友達くらいのレベルでずっとみんなと付き合ってるから結構楽しいのかなって。
もやもやしてることの一つに、電車通勤してる時に、あのなんだろ。人がいて、人を押すって行為がなんかめちゃめちゃ嫌で。よく考えるとそれがすごく嫌になってきて、電車の時、人を押すっていうのが、人を人として見てない行為だなと。自分も後ろから押されると、ベルトコンベアーにじゃがいもごろんごろんって、ぼこんぼこんってぶつかってるようなイメージがすごいして。え?みんなこれ人間だよね?っていうふうに思いながら、その押される瞬間いっつもそこはなんかずっとモヤモヤしながら生活してて。それがなんだろな、社会のいろんなところに埋め込まれてる感じがしてて。社会に出てるときは、人間性の一部殺して生きていくのが普通なんだよ、っていう暗示をいろんなところでかけられてるような感じして、それがたまらなく嫌になって」
重要な指摘だなと思う。そして、ラスカルさんの言う通り日常に「埋め込まれてる」 ことに対して、このように嫌悪感を持ち続けられるということも稀有なことのように思える。習慣や惰性の中で人は何かを感じる心を鈍らせていくからだ。私も、たまに通勤電車に乗る事があると、どうしてもアウシュビッツへ送られる汽車とか、戦後外地から帰った引揚者がつめこまれて、糞尿も垂れ流すしかなかったというぎゅうぎゅうの列車を想像してしまう。感じることを一時的に麻痺させなければ、苦痛が大きくなる。
「昨日会社の上司の送別会だったんですけど、そういうことを若者に話したら、めっちゃ爆笑してて。えー!?みたいな(笑)。俺真面目に話してんのにって(笑)。「思わない?」とか言ったら、「いや、考えすぎなんじゃないですか?」とか。どうなんだろうなって。まぁ酔っぱらってたからかもしれないですけど。真面目に話してたらちゃんと...。皆さん何かそういう、こういうのなんか人間性損なうので嫌だとかっていうシーンとかってあります?っていうのを皆さんに聞きたいな」

タジリさんが口を開いた。
「僕は東京の大学に通っていたんだけど、就職活動で山手線通に乗っていたら『うわ、キモっ』って思ってしまった。それまで避けていた満員電車に『これがずっと続くのか』とゾッとした。進んでいる面接もあったけど、何も言わずに辞退。で、地元の富山に戻ったんですよね」
地方で暮らす人たちからはよく聞く意見だ。東京で生まれた私にとっても、通勤電車は避けるべきものであることには変わりなかった。大学も、その他の志望理由もあったけれど、田舎方面に向かう電車に乗れることは大きな魅力だった。ラスカルさんの言う「非人間性」はとてもよくわかる。マエダさんが別の角度から切り込む。
「取材で漁港とかも行くんですけど、食べ物を作ってる現場のことを考えると、結構受け止められないくらい苦しいことが沢山あって。魚もみんなが知ってる知名度のある魚しか売れないから捨てる魚が結構ある。売れない魚は値段が付かない。獲りすぎて、魚の資源量落ちてるんですけど、でもすっごいたくさん獲って、ちょっとしか売れないみたいな。すごく無駄が多いし、それは漁港の人もわかってないし、誰も、どれだけロスがあるかもわかってない。畑の農産物もちょっと見た目が悪いと売れないから、捨てる。畑にすきこむので、土の栄養にはなるのかもしれないんだけど。日本人の変な美意識というか、これがOKっていう範囲が狭すぎて、作ってる人にはすごい負担になってて。でもなんかそういう、これがOKの範囲が狭いっていうことは、野菜とか魚を見る目がそうっていうのは、同じように人を見る目っていうのもそう、自分たちに跳ね返ってきてるとこは絶対あって。許容範囲が狭いから、逆にすごい多様性とか、インクルーシブ包括とか、言わなきゃいけないのかなと」
日本人の農産物の見た目重視の傾向は確実にあるのだろう。加えて、一度打ち立てた規則をなかなか変えられない傾向も強いと思う。本当は、見た目が悪くても少し安い方がいいという人はたくさんいるだろうに、いったん商品基準を打ち立ててしまうと、それをもとにしか動けなくなってしまう。個人で通販などをはじめている農家さんも増えていて、そういうところで無駄な廃棄をなくすことを呼びかけ、売り上げに繋げている人もいる。マスのシステムをかいくぐった個々の動きに、いつでも変革のヒントや突破口が隠されているのだとも思う。
 もう一つ思うのは、見た目重視はある種の美意識であると同時に、対象の管理のしやすさをのための均質さを求める側面もあるだろうということだ。ピーマン一個のグラム数をおよそ〇グラムと均一化してあれば、「一袋につめるのは5つ」と同一にできる。教育現場で、理不尽な校則がいつまでも残っているのも、結局みな均質な生徒であることを求められるという根っこが変わらないためだ。生徒がみなが同じようであれば管理が楽なのは教師であり学校だ。校則はルールだ、ルールを守れない奴はろくな社会人になれないぞという脅しで、生徒の反論を防ぐことができるのだ。生徒にも頭を使わせない、自分も頭を使わない。次女が去年から縁あって進んだ中学には「哲学」の授業があるが、校則らしい校則がない。逆に言えば、生徒の独自性を封じてしまう校則のある学校で「哲学」の授業は成立しえないだろうと思う。ラスカルさんが通勤電車に代表される非人間性が「社会のいろんなところに埋め込まれてる感じ」という指摘は鋭いものだ。私たちは袋詰めされるピーマンやジャガイモのように「均質であれ」「はみだすな」という教育を受けてきたのだといえる。その根強い思考が残されたまま、「多様性」「インクルーシブ」を持ち出しても、表面だけのことになる。つい先日の卒業式でも、外国籍のルーツを持つ生徒が細かく編み込んだ髪型をしてきて、別室に隔離されるという事態が起きてニュースになっていた。卒業生の卒業を祝うための式ではないのか?と首をかしげたくなる。
 参加者の発言から未来の話が広がっていく。
「なんか昔って、自分の子供の頃って、ロボットが全部仕事してくれて、僕たちはもっと楽しく暮らせるっていうかバラ色人生みたいなそういうのあった。気が付いたら、仕事取られるわ!機械に仕事取られるわ!みたいな。いつからこんな発想になったんだっけっていうのは常々思ってて。なにがどこでどう気持ちが変わったんだって。明日ここ機械が入って、私仕事取られて仕事辞めなきゃって、え?そんな仕事したかったんだって(笑)。社会との繋がりを求めたうえでの仕事って全然あると思うんですよ。ただ、なんだろな。機械に仕事取られてっていう言い方になってくると、なんかちょっと違うのかなって。本来だったらそれをちゃんと、機械に置き換えた分は、僕たちの生活の一部っていうか、そこがゆとりになるような形の仕組みをちゃんとつくってもらって、っていう形になるはずなのに、いつからそんな暗い話になっちゃったんだろうなみたいな。機械が万能とかっていうわけじゃないですけど。それでちょっともやもやしたりとか...」
なるほど、と思う。機械化で明るい未来もあるはずだと。みなに平等にその恩恵が回ればもちろんそれほど素晴らしいことはない。しかし、現状でさえ非正規労働という不平等な労働環境が温存されている中で、いきなりそのような恩恵が降ってくるとも思えない。機械化によって仕事を追われる、と感じる人は多いだろう。それが契機となって、都会を離れての生活に目が向き、運よく活路が開ければよいのだろうけれど......。


タジリさんが言葉をつぐ。
「未来の社会を眩しく描いた子ども向けの本って、最近見かけなくないですか? 僕が子どもの時ってよくあったと思うんだけど。宇宙食みたいなご飯を食べたり、車が空を飛んでいたり。あと、料理も洗濯も人間がする必要なかったり。最近の絵本コーナーとか覗いていても、そんな光景を描いた本が見当たらない。光り輝く未来が絵本の中にすら登場しない」「たしかに首都高とか見ると、もう車飛んでますもんね。ちっちゃい頃に見てたその絵本がもう東京にあったと思って(笑)。田舎出身だから、東京に行った時もうびっくりして」とワタナベさん。 そういう意味では、60年代~80年代のような「夢」は国に勢いあってのものだったのかもしれない。今の若い世代はおろか、私たち40代からして、氷河期世代であり、非正規労働の中で夢を生きるどころではなかった人も多い。
私たちなりの夢の見方。それは、みんなが未来都市を夢見た時代とは違って、もっと個人的で、この国の多数派の生き方、「あたりまえ」の価値観から抜け出すことで実現させるものとなっているのかもしれない。ラスカルさんのように違和感を吐き出し共有することもまた、「あたりまえ」を疑う大事な行為だ。
「それを言ってかなきゃいけないんじゃないかなって思いますよね。なんかそれを当たり前のように受け止めて生活してると、さもそれが普通っていうか。議論の対象にもならないっていうか。普通じゃないよねって伝えていかなきゃいけないのかなって。昨日後輩が爆笑してたのもそれかなって。それが当たり前っていうか、え?何今更そんなこと言ってんの?みたいな」というラスカルさんに、演じなきゃやってられないという側面もあるのでは、とタジリさんが指摘する。

「ちょっと前にバズったツイートにこんなものがありました。会社の玄関に入る瞬間に『コント社会人』って小さくつぶやいてから入るっていう。会社って大なり小なり大変なことが溢れている。だからコントを演じるというわけ。そういう気持ちはものすごくわかる。嫌な仕事をやるときは、括弧で自分を括らないとちょっとやっていられない。これは本来の『私』じゃなくて、役柄としての『私』だと思いたい。仕事だからってやるにはやるんだけど、心のどこかで『いやいやいや、それ間違ってるよ』って抵抗している」

タジリさんはつらい業務が続いた時期に、「こういう仕事なので」と無意識に「括弧でくるむ」ことをしていたという。
「例えば明らかに、自分の信条としては違うことでも、指示を受けてやらないといけないことがある。世の中からも必要とされているかもしれない。でも、個人としてはやりたくない。自分が指示に従うことで、不愉快な思いをする人もいる。そういう仕事はしたくないなぁって思いつつ、仕方なくやることってあるでしょう。僕は新聞社に勤めているけど、大きい事件事故があったら、その遺族のお宅に行って『お話を聞かせてください』とお願いすることもありました。まあ、いやですよ。遺族の方の気持ちなんて聞かなくても分かる。そっとしてあげたい。でも、『コメントをもらえ』と指示は来る。他社さんも来ている。かつて以上にそういう取材行為に批判がある一方で、意味がないとは言い切れない。だって、メディアにお話されたい方もいるかもしれないし、直接尋ねるからこそ分かることもある。そういった情報を無意識的に求めている読者もいる。記事に触れ、『そんな酷いことがあったのか。こんな事件事故は無くさなければ』と思う人がいるかもしれない。もしそうだったら、世の中を少しはマシにしているわけですよ。『なんで、悲しい思いをしている遺族の家に押しかけるの』という批判はとてもよく分かる。でも、遺族の思いを知って『この人の力になりたい』と思う人もいる。で、さらに上司からの圧力もある。拒む理由も、やるべき理由もある。命令はあるが、それが正しいかどうかはわからない。どうすりゃいいんだって打ちひしがれる状況に立ったら、『コント社会人』って呟くほかない」
批判もあれば、求める意見があるのも事実。それに応えるのが自分の任務。 多くの仕事でこのジレンマは見られるのだと思う。「『コント社会人』をやるしかない」というタジリさんの言葉が軽いような重いような不思議な響きだと思った。

ふと、外国人への待遇に批判が集まる入管の職員のことを思い出した。入管に監視される外国人たちの支援者側からみたら、人でなしのように思えるあの人たちは何を感じて仕事をしているのだろうか。

●明日が来るのが怖くてしかたがない タケノウチさん
「すいませんなんか、全然私はあまり悩み事があるんだけど、それを悩みと言っている自分が本当に、人様に顔向けできないような感じなんで、今日は皆さんのお話を聞いて、あぁこんな感じなんやなぁ人間って、って感じで。なんか皆、話聞いてるとめっちゃ優しいし、なんかすごい全部のことを真面目に捉えるし、すごい人間としてできてる人たちばっかりなんだなぁって思って。なんだろ、私全部が全部さっきの話に通じると思うんですけど、逃げてるんですね。未来の話、さっき皆さん言ってらっしゃいましたけど、見えないからわかんない、怖い。ずっと無駄な恐怖感にずっとさいなまれ続け、みたいな感じなんで。どうやって人生を生きていけばいいんだろうみたいな感じになりながらですね。さっきみたいに、問題に真面目に取り組むことも、自分の中ではしてるし、社会的にはすごくなんかしっかりしてるよねとか、ちゃんと仕事してるよねみたいな感じとかに言われてるけど、自分の中ではそれは逃げの一種であったり。さっきの社会的にはこうした方が正解だ、みたいな感じのやつとかも、自分の中では違うと思ってるけど、逃げの一種だったからこっちの方に行こ!みたいな感じになっちゃうから。どうしたもんかなって思いながら、けどそれも自分が苦手で許せないというか。けど、そうやって...未来が見えないので、明るくないのかなぁ?このままなのかなぁ自分は~みたいな感じで、ずーっと生きてきたものがあるんだけど、答えがでないままずっといるし、でも今日みんなの話を聞いて、すごいなぁ、だめなのかなぁこれじゃあって思ったんですけど。5年前に、ここで多分マヒトゥーさんと寺尾さんがやっておられたやつで、その時私失礼ながらお二人のこと全然存じ上げなくて、友人が誘ってくださったんですけど、その時にお二人の歌を、ほんとこんな近い距離で聴いてたら、あぁ~二人ともすごいまっすぐな目をしてって(笑)。なんていうんですか、のらりくらりとすべての物事を往々してきたから。マヒトゥーさんも、なんでか知らんけどしゃべる機会があったんですよ。その時に一言だけですべて、おまえのことをわかるぞぉって感じになるから、私はどうして生きていけばいいのだろうみたいな感じになる(笑)。こうやってる自分が嫌だけど、どうすればいいのかわからず。けど、今日リクエストさせてもらった"光のたましい"っていう曲が、みんな孤独だよみたいな、最終的にはみたいな。みんな、生きて、探してるよみたいな。ほんとかよー?とか勝手にちょっと思うところがあるんですけど、ほんとだわーってなって今日話聞いて。私の中ではその曲がとても大事な曲だから、お守りの一つ、さっきのしんどい時に聞くプレイリストみたいな感じの中の、お守りの一曲として居るんですけど。本当に、今までの話を聞いてわかるように、堂々巡りなんですよね。みんなの中では、他の方たちから聞いてたら、そりゃあ真面目に生きるしかなくねぇ?みたいな話かもしれないんですけど・・・できるのかしら?みたいな。最終的にその不安に、世界のすべての不安の中に自分の不安も入ってるから、不安がずっと膜を覆い続けるみたいな。大丈夫かもしれない、あ、けどまだ不安があるわ!大丈夫じゃない大丈夫じゃない!みたいな。だけど、さっきの皆さんの話を聞いとったら、大丈夫だったんだー、大丈夫だったかもしれない!って気配を感じてきたんだけども、私はその膜をどうやったら破れるんだろうかぁみたいな。」
タケノウチさんの悩みの核心がなかなか見えなかったが、その悩みの深さはよく伝わってくる。仮にアーティストがまっすぐな目をしていたとして、それを見て、自分はまっすぐに生きられていないと感じてしまうというのはどういうことなのだろうか。
「生きるのが怖い。明日・・・生きるのが怖いんじゃなくて、明日が来るんだと思うと、つらいわけじゃないんだけど、明日はどうしようみたいな感じになっちゃう。なんかこんなこと考えてるのあほじゃね?みたいな感じのことをみんなに言われるんだけど、やっぱり私あほなんかな?とか。行き場のない不安があるから、みんなあほやって思われることが多いんですけど、どうしようみたいな。困ってるようで困ってない、けど、私の中ではなんか、不安の膜がいっぱいあるねんみたいな感じで。永遠に、どこに、行くんでしょう私は。私は広いとこまで出てきてるんでしょうか、それとも、まだここの中の不安の中なのでしょうか、って感じがちょっと続いてるから、皆さんみたいに答えを出せない、みたいな」
どうやら、不安の核自体がぼんやりとした、しかし彼女にとっては日々切実な問題のようだった。
「周りから見たら堂々巡りだし、あほかよ、みたいな。なんでそんなことで悩んでんの?みたいな感じになるんだけど、私の中ではでっかい悩みなのかもわかんないし、小さい中身なのかもわかんないし、私はここにいるのかもしれないし、もっと地下の方にいるのかもしれないし、みたいな感じで。楽しいこともあって、楽しいなって思うんだけど、で、最終的に、寝る瞬間には明日が来てしまう...みたいな感じで」
そこに戻ってくるのか、と一同笑いが起きる。寝るときにそこまで不安になってしまう人がいるということは多くの人にとって、驚きであり、その驚きゆえの笑いだった。
「だから言ったじゃないですか(笑)。あほみたいなって(笑)。そんな感じなんですよ。別になんだろ、明日が来てほしいわけじゃないから、寝るときに明日も頑張って生きようとか、体明日も頑張ろうね、みたいな感じで寝るんです。起きようねぇ、みたいな。明日も生きてたいねぇ、みたいな感じで話してて、あほ、あほ、ほんまにあほなんですよ(笑)。」
「それは小さい時?いつから?ずーっとですか?」 とマエダさん。
「結構小さい頃からですかね。ほんとに漠然とした不安っていうか、どうしようって。毎日思っとるわけじゃないんですよ?でもなにかどこか心の端っことかに、なんか...どうしよう、みたいな。どうしようじゃないんですよね。なんか名付けようがない何かがあって、どうしよう...どうしようって言葉が出てきちゃうんです結局。私の中ではなんだろ、次会えないかもしれないずっと。すべての物・人に思うわけです。で、そういう風に普通に考えないから、みたいなこと言われると、普通は考えないんだったら私はどうやってここから・・・あ、すごい、夕焼け小焼けになっちゃった(笑)。」
タケノウチさんの早口で笑いを交えた語り口に侵入してきた「夕焼け小焼け」に再び笑いが起きる。
「どうしようっていうのが堂々巡りで結局答えは出ないんですよ。で、皆さんも「そんなこと考えないよ」となると、ここでどうしようにもう一回戻ってくるんですよ。」
私が心に残ったのは「次会えないかもしれないずっと。すべての物・人に思うわけです」というフレーズだった。例えば自分の母親が死んじゃうかも、自分も死んじゃうかもというような不安なのだろうか。
「それも、あります。が、それが別に悲しいから寝たくないとか生きていたくないとかじゃなくて、そうなった時にどう対処しようってことずっと頭の中で、全ての物事を考えちゃうって感じ。」
「あぁ、頭いいんですよ。だから先のこと考えてしまうんですよ。心にここにあらずって感じ」
「あー、ずっと俯瞰してる感じです。なんだろ、自分のことなんだけど、自分のことじゃないみたいな感じ。」
俯瞰というのは一つのキーワードなのかもしれなかった。多くの人は自分が明日死ぬとは思っていない。愛する人が明日死ぬとも思っていない。しかし、神の視点でみたとき、世の中には車の事故があり、飛行機事故があり、通り魔がおり、心臓発作で突然逝く人もいる。人はいつ死んでもおかしくない存在であり、むしろ「明日死ぬわけがない」という思い込みの方が傲慢なのだが、多くの人は明日が来ることを疑わない。タケノウチさんは神のような俯瞰の視点を与えられてしまったがゆえに、のんびりと生きることが困難になっているのだ。そのとき、演歌の高校生ハシモトさんが田房永子さんの本に再び言及した。
「それには"今ここにいる"っていうのをやるっていうふうに書いてあって。例えば今だと、自分の場合だと、扇風機が見えますとか、これが見えるとか、畳が見えるとかっていうのを、やっていく。それだけに集中してやってみる。そうすると、少なくともその場だけは、今ここに意識を向けて、その未来のこととか考えなくて済む。あと、もやもやしたら、そのもやもやしたっていうことを...自分みたいのが言っていいのかわからないんですけど、受け入れるっていうのが一番大事なんじゃないかなぁっていうふうに思いました。無理に振りかざせることなくいけたらいいなあって。自分結構振りかざしちゃうタイプなんで」
ハシモトさんの年齢不相応な的確なアドバイスに一同舌を巻き、感嘆の笑いが起きる。
「とんでもない包容力(笑)」
「カウンセラーとか」
「バーとかカフェとかやった方がいいよ(笑)」
そこに ホリエさんが不安について言及する。
「僕その不安に先走った不安って名前つけてるんです。不安に対して先へ先へ考えようとしてしまうっていうか。勝手に物語を生み出してしまってるだけなんやと思うんですよ。だから僕そういう時は、根拠があるかどうか、実際にそこに存在してるかどうかっていうのを一回考えてみて、なければ、置いとくっていう。で、根拠なりなんなり実態のある不安であれば、解決するためにはどうしたらいいかって考えてます。考えるようにしたいなって思ってます。練習中です。」
これは確かに、多くの人が経験があるのではないだろうか。メールやラインの返信が遅いとき、不安になったことがある人は多いはずだし、デジタル・ネイティブ世代はそれゆえに友人に迅速な返信をすべく、スマホを手放せない中毒のようになったりもしている。相手が不快になっていないか、自分のことを本当は嫌っていないか。あるのはメールの返信がまだ、という事実だけなのだが、不安は先走りしやすい。ハシモトさんの紹介してくれた「見えるものを数える」やり方のように、「起きている事実」だけを認識しなおすことも、心を平静に保つ一つのメソッドかもしれない。
タケノウチさんの不安が周りと違うことについて、マエダさんが思いやる。
「人に話すことでそうやって違うと言われるから、きっとそこが孤独を深められてるのかなって思うんだけど。そういう仲間もいるはずだというか。出会えるんじゃないんですか?きっと、ついつい考えてしまうっていう人もいるはずだし」
「そんな大したことないってよく周りの人が言うっていう話なんですけど。自分が辛かったら辛いでいいんじゃないかなぁって思いました。自分が辛いなら辛いってことを受け入れてあげる、心のままに。心のままっていうか、好きなように生きれると思うし。社会的におかしくても嫌なら嫌やし、社会的に矛盾でもだめなもんはだめやしって、自分の中でポリシーがあったら強いんじゃないかなぁって今話聞いてて思いました。」
最後はやっぱりハシモトさんがなかなかいいまとめをくれた。多分、つらさを乗り切る知恵は、タケノウチさん自身が身につけてきたのだと思う。「明日も頑張って生きようとか、体明日も頑張ろうね、みたいな感じで寝るんです。起きようねぇ、みたいな。明日も生きてたいねぇ、みたいな感じで」と自分自身に語りかける、という言葉からもそれはうかがえる。それはほかの人にとっては変わっていることでも、タケノウチさんには必要なことであり、普通のことであり、立派な知恵なのだと思う。それを信頼する人以外には言わなくてもいいかもしれないし、信頼する人から予想外の反応をもらっても、これが私なんだ、と前を向けるような核ができたとき、ハシモトさんのいう「ポリシー」ができたということなのかもしれない。それは、たぶん自分のことを自信をもって愛してあげるということでもあって、タケノウチさんばかりでなく、多くの人が求めてやまない、人間にとって大切な人生のテーマの一つなのだと思う。

●久々に大人の集まる場に出てこられたお母さん アライさん
「久しぶりにこういう大人の人たちの集まる会に参加させてもらって、皆さんの話聞けただけでも、すごい嬉しいんですけど。なんか、ここに呼ばれて良かったなって思いました。この子と、今5か月で、上の子が2歳なんですけど、ちょっとしばらくは子供のことが中心の生活で、なかなかゆっくり音楽聴く時間もないし。あんまり大人の悩みみたいなものはないんですけど、今日歌ってもらった歌を家に帰って待ってる子に聞かせてあげたいなと」
アライさんの腕には5か月の赤ちゃんが眠っていた。
「ひとつお礼っていうか、赤ちゃんを見る機会が今ほんとにないので、ほんとにありがとうございます。」とワタナベさん。
「来ること良いよって受け入れてもらったのでみなさんのおかげで、今日来れたので。来たいなと思ってたけど、だいたい子供はご遠慮しますっていうので。なかなか出かけることもできなくて。でもなんかこういう会に参加できたのはちょっと貴重だったなって。」
「子どもはご遠慮します」。お店でもコンサートでも多い。先日島根のホールでわらべうたライブを行ったが、アンケートに「子供の年齢制限をあげるべき」という意見も見られた。ライブの始まるときに、「お子さんも多いですけども、お母さんも気が気でないと思います。いろんな声もBGMとしてあたたかい目で見守ってもらえたら」と投げかけたのだが、それでもやはりこういう意見も出る。私も昔は、静かな曲が多い自分のライブは子供の多い場では向かない、と誘われた子供向けイベントを断ったこともあった。しかし、お客さんが子供を連れてくることはOKにしていたところ、素晴らしいタイミングで泣いてくれたり、声をぽつんと放ってくれたり、笑ってくれたり、それが曲の歌詞と相まって素晴らしい瞬間を生み出してくれることが一度でなく何度もあった。そういう経験をしてから、音楽を聴くときに完全なる静寂は必ずしもいらないのではないか?という気持ちが強くなった。私たちの社会は、小さい人から年寄りまで雑多な人々で成りたっている。そういう人たちがそれぞれに音楽を感じ合う場はやっぱり必要だ。ライブというのは、共に聞く人を感じ合う場でもあるから、これは子どもをどう眺めるかという問題にもつながってくる。静寂をかきみだす邪魔者としかみなせないか、命の塊が思いのままにふるまうその姿に何かを感じ取るのか。さきの均質化の話ともつながるが、異なる他者を許容できるのかが、今社会のあちこちで問われているのだと思う。
アライさんの腕の中ですやすやと眠る赤ちゃんを見ながら、あらためてそう思った。

Uchiakeの記 vol.6 射水篇その2

Uchiakeの記 vol.6 射水篇その2

1人目  BTSロスから抜けきれない新聞記者 タジリさん
2人目 歌いたい男性 ホリエさん
3人目 自分でも「語りの集い」をやりたいフリーライター マエダさん
4人目 演歌歌手になりたい高校生 ハシモトさん
5人目 「楕円の夢」を聴けなくなった作家 アイダさん
6人目 今年お母さんを見送った写真家 タケダさん
7人目 役割を「演じる」ことに疑問を感じるソーシャルワーカー ワタナベさん
8人目 満員電車への疑問を禁じ得ないサラリーマン ラスカルさん 
9人目 明日が来るのが怖くてしかたがない タケノウチさん
10人目 久々に大人の集まる場に出てこられたお母さん アライさん  

4人目 演歌歌手になりたい高校生 ハシモトさん

「ハシモトシドと言います。今高校三年生で、金沢から来ました。自分も歌うことが好きで、一応演歌歌手を目指してて、NHKのど自慢に今年でたりしたんですけど」
一同驚きの眼差しがハシモトさんに注がれる。
「残念ながら鐘二つだったんですが、その時のゲストが小林幸子さんで、もともとすっごい好きで、本人の前でデビュー曲を歌ったんです。まず幸子さんにお会い出来てよかったなっていうのと、でも鐘二つで悔しかったなあっていう日でした(笑)。今日来たのは寺尾さんのわらべうたのアルバムがすごく好きで、特に二枚目が好きで、富山に寺尾さんが来られるってことで、これは是非聞きたいなと思って申し込みました」
わらべうたのアルバムは、これまで二枚だしているが、オリジナルアルバムと比べると売り上げは若干落ちる。おそらくポップスのリスナーの中には「わらべうた」への偏見がある人もいるためだろう。そういう人にもいつか届いてほしいなという思いで、出し続けている。私のライフワークの一つになると思う。加えて、高校生リスナーというのは私のファンの中ではかなりマイノリティだ。30代~50代が主で、20代はたまに出会うくらい、10代となると非常に珍しい。まれに大学の音楽サークルでカバーしてくれていたり、学園祭に呼ばれたことも一度だけあるが、どちらかといえば地味な音楽だし、歌詞が表層の意味を越えて内側に響くかということも含めて、色々な経験値が少ない若い人には届きにくい音楽だと思っている。だから、二重にハシモトさんの登場には驚いた。
「自分はどうしても人から見た歌、ということを気にしちゃう時があって、それは歌だけじゃなくて、たとえばものを一つ選ぶにしろ、買うにしろ考えてしまって、自分の意見を蔑ろにしてるような。これほんとに欲しいのか、ほんとに買いたいのかっていうのが、見ないふりというか見えない状態で、それがすごく嫌で。歌も自分がこう思ったからこう伝えたいっていうのがあるからこそ、いい歌ができるんじゃないかと思ってて。物にしろ、これがいいからこれを買うって買ったものこそ愛着がわく気がして。そういう歌を、自分がこういうものを伝えたいんだっていう歌を歌えるようになりたいな、というのが自分のウチアケですかね。伝えたい思いが自分でわかって、自分の心とやりたいことが合致するっていうのができたらいいなと思います」
「爽やかなお話を聞かせてもらった気がしますが、今これが好きだってものがあるけどうまく出せないんですか?」
「この歌好きだって思っても、何で好きかっていうのが、好きは好きなんですけど、自分はこれをこう受け取って、こういう風に伝えたいっていうのが、自分の思いがたまにわからなくなる感じですかね。今ちょっと歌ってもいいですか?潮岬情話っていう香西かおりさんの曲を」
ハシモトさんが立ち上がり拍手が起こる。

沖へゆくのは 佐吉の舟よ
今朝は別れて いつまた逢える
いくら好きでも 添えない人を
なんでこうまで 好きになる
ハア―潮の岬に 灯台あれど
恋の闇路は 照らしゃせぬ

声量で聞かせるタイプというよりは、細やかなこぶしで聞かせるタイプだろうか。演歌の歌唱についてはよくわからないが、小回りのきく声のコントロールをしながら歌うのを、楽しそうに歌うハシモトさんがいた。私はまだ学生でもある彼が、「恋の闇路」を「今朝は別れて いつまた逢える」と歌っているのを不思議な気持ちで聞いた。
「あの、恋してますか?」
「あ、全く」とハシモトさんは答えた。
そうだろうなと思った。演歌は特に恋の中でも恨みつらみや切なさを歌うものが多いから、恋を知らない青年が、その情念を理解して歌えるようになるのはやはり少なくとも10年はかかるのではないかと思えた。聞けば共学だが、気になる異性はいない。今後については3月で卒業だが、接客業でもしながら演歌歌手を目指すという計画だという。
「寺尾さんの歌は伝えたいことがすごくこもっている気がするので好きです」
「ありがとうございます。いい恋をしてください(笑)、失恋なんかも含めてですね」
私が恋の問題でまとめようとすると、ハシモトさんは演歌には「夢をつかむ」といったテーマもあるのだ、と教えてくれた。
「そういう歌を、自分の思いを込めて歌うのがすごく好きなんですけど、そのときに歌詞の意味に自分なりにこう思ったっていうその思いを伝えられるようになりたいですね。それは恋だけじゃなくて、物を選んだり、生きて行く中でも」
オリジナルのメロディ、オリジナルの歌詞で勝負するシンガーソングライターと違って、演歌歌手は「歌手」である。自分の独自性を、歌唱そのもので表現するというのは、たしかに簡単なことではないのかもしれない。それでも、気になるものに対して、自分が感じていることは何なのか。どこに一番共鳴しているのか、それは世の中の常識や流行の影響をうけてはいないか、ということをきちんと見つめてみることは、自己に誠実に向き合うことでもあるだろう。ともすれば、好きだからという一言で済ませてしまう人もいるだろうことについて、深く向い合おうとしているハシモトさん。演歌を相棒として、一生をかけようとしている姿が清清しく、心から応援したくなった。

5人目 「楕円の夢」を聴けなくなった作家 アイダさん

5人目 「楕円の夢」を聴けなくなった作家 アイダさん 「フレッシュな話を聞いたあとで、すごい緊張するんですけど。「楕円の夢」をリクエストしました......。すみません、上手に話せる気がしなくて。もともと寺尾さんを知ったのは、ある飲食店の雰囲気も料理も全部好きで、かかってるBGMが自分のプレイリストかなってくらいマッチしているお店で、寺尾さんの曲だけその時知らなくてすごく耳に心地良かったので、店主に聞いて教えてもらったのがきっかけで好きになったんです。中でも「楕円の夢」が好きで、結局その店でアルバイトをしたんですけど、その店とか店主のテーマ曲みたいな感じで。自分の制作の時にも寺尾 さんの曲はすごく聞いてたんですけど、実は三月から一切聞けなくなってしまって。お店と色々問題があって、自分の精神状態が安定しないから、聞くと思い出してしまう。大好きだった曲を聴けなくなってしまって。で、寺尾さんが昨日ライブされるのも知っていたし、行きたいと思ったけど、迷っていて、そんな中でウチアケがあるのを知って、直観的に行きたいなと思って応募しました。予約がとれて嬉しかったんですけど、打ち明けることをどうしたらいいかわからないなと思いながら昨日まで過ごしていて、友人にどうしようって話したら、「話せるなら話したらいいし、行けるなら金沢行ったら?」って言われて、急遽昨日金沢のチケットもとって見に行ったんです。本当にすごい好きで、自分の心にすっと入ってきたり励まされたり、楕円の夢は特に今の自分の状況にすごく似ていて、どういう風に作られたのかはわからないですが、共感しすぎてちょっと苦しくて聞けなかったんです。でも今日聞いたらやっぱりすごく好きで、なんかとっても心が洗われました」 歌が呼び起こす記憶は生々しい。一緒に聞いた曲も、「誰か」との関係がこじれたり、別れを受け入れなければならない展開になれば、聞き返すのが辛い曲になってしまう、ということは想像できる。好きだった店でアルバイトをしたというアイダさんに「店長さん」 とこじれたのですか、と単刀直入に聞いた。
「すごく仲がよかったんですけど、結局、めちゃめちゃ変な話ですが、向こうに告白されて。どうしたらいいんだろうと思ってたら「好きだけど、結婚できないから付き合えません」ってその場で言われて。意味がよくわからなかったんですが、すごく尊敬してる方だったので、好きって感情はあるけど、その好きは私の中ではそのときしっかりとした恋愛感情にはなっていなくて。向こうは恋愛感情はあるけど付き合えないと言っている。そこからこじれていって。私もどうしたらいいかわからないし、向こうの要望にも応えきれない。そしたらバイトも辞めてほしいと言われたり。わたし、本業は作家業なんですけど、それだけだと社会とのつながりがほんとになくなってしまうので、人と会話したくて、飲食店のバイトを始めたんです。」「好きだけど、結婚できないから付き合えません」とは不思議な言葉だ。どうやら、彼の中で、結婚に対する強い拒否感があり、さらに「付き合う=結婚しなければならない」という強固な観念もあるように、感じられる。自分自身を強く律しようとするも、自分の中の感情がそれに悲鳴をあげているようなイメージだ。生きるのが辛そうだ。相手を求め、 拒絶されれば、さらに強く拒絶し、時に嫌がらせようなことにも及ぶ。そこにあるのは利他としての愛ではない。拒絶されて憎しみに代わる愛は、そもそも愛の顔をしたエゴや寂しさである。
「辞めるって選択肢がその時思い浮かばなくて、その店のことも大好きだし、人としてもすごく好きな方の店だったから、辞めたくない。関係性が受け取れないなら辞めてっていうのも不当だなって思ったし。そのあとバイトは続けることになったのですが、自分では結局気づけなかったんですけど、多分ずっとパワハラを受けてて。それもわからなくて、飲食店で仕事したことがなかったので、そういうものだと思って過ごしてきて。結局最後は、マンボウがあってお休みの時期も多かったんですけど、辞める辞めないの話もないまま、シフトの連絡がないので聞きに行ったら、他の女の子を雇ったから要りませんって言われて扉をしめられました。それを受け入れられなくて、自分の気持ちもどこにやっていいかわからないのと、言ってしまえば本業でもない仕事にこんなショックを受けているのも自分自身が情けなくなっちゃって。4月くらいに相談した違うお店の人から、「それはおかしいから、とにかく離れた方がいいよ」って言われて、パワハラやDV のようなものに気づかされて辞めることにしたんです。それでもそのあと、何度も思い出してしまっていろんなこと。」
営業再開のためのシフトの連絡が来なかったり、あからさまに不機嫌になったり、肉体関係の強要もあったという。災難、という言葉が思い浮かぶ。同時に、尊敬できる人のように見えて、素晴らしい空間を作り上げている人でも、心にどこか満たされない淋しさや幼さを持っていることもあるのだ、ということが悲しく伝わってくる。アイダさんは、その後引きこもるようになってしまったが、「おかしいから」と教えてくれ、やめるきっかけをくれた知人の営むお店で、リハビリを兼ねて雇ってもらったりしながら、ようやく時間をかけて外出できるようになってきたところだという。
「状況が、楕円の夢の歌詞にちょっと似ていたというか、いい曲だったけど、まだ聴くのが辛いなと過ごしていた状態でした。でも昨日今日と聞いて、やっぱりすごい好きだなって思いました」
あの曲を作ったときは私自身もぼろぼろだった。 歌にすることで前に進めた、自分を励ますような歌だったと振り返って思う。一度は聞けなく なってしまった「楕円の夢」、そこにこびりついてしまった負の思い出を、どう薄めて上書きし、 聞き直していけるかという地点にアイダさんはいるのだなと思った。やはり失恋の時期に「楕円の夢」の歌詞に共感したというマエダさんが、「今はすごい辛い時期だと思うんですけど」と意見をくれた。
「何年か経ったとき、状況がよければ「そのおかげで今がある」と思えるし、状況が悪ければ「そのせいで今がダメ」に思えるのかなと思いますが、それも日によって違ったり、完全にどっちかじゃなくてうろうろするんですよね。でも、すごくいいと思っていたものに、そういう面があったんだなあとか、そういう人もいるんだなあって苦しいけど、それを知ることも面白いって言ったら変だけど、色んなことがあるんだなって全く知らないよりは知れたことはいいことかもしれないし、意味はあるのかもって思えるのかもしれないですね」 知りたくなかった、ということは勿論ある。それでも、長い視点でみたときに、一つの忘れがたい経験やそれがもたらした教訓というのは、その人の感情の血肉になっていくのだろうと思う。「知らなくていいことなど何もなかった」という言葉の持つ強さは、そういう、人生を少し引いたところから捉えなおせたときに出てくる言葉なのだろうと思う。しかし、アイダさんの悩みは少し違うところにあった。
「誰かにとってその人はすごく良い人かもしれないけど、自分にとっては今すごく悪い人、になってるとしたら、その相手じゃなくて自分に問題があったのかなって考えることの方が多くて。例えばこういう状態になってしまったのは、自分に弱さがあったからかな、とか。何が悪かったんだろうっていうのを考えてしまうんです。「とりあえずそういうの考えるのやめよう」って友達に言われて、排除していってる途中なんですけど。なんか怒りよりも、悲しみの方が大きいので、怒れた方が楽だなってすごく思います」
優しい人なんだなと思う。こんなに「素敵な人」の悪い面を引き出してしまった自分を責めてしまう。怒りよりも悲しみに飲み込まれてしまう。再びマエダさんが、アイダさんと店長が陥った関係について、的確な指摘を入れてくれた。
「何らかの相性があったんだと思います。こういう人がこういう人に出会うと支配的になったり、暴力的になったり。相手も抱えてるものがあって、それが相性によっては出てしまう。そういう人をケアするのは難しいけれど、本来はその暴力をふるう人自体がケアされる必要があるんだろうなって。じゃあ誰がするんだって、すごく難しいと思うんですけど。でもアイダさんが悪いっていうよりも、その相手の人の苦しみがあるんだろうから、その人が救われるといいなって」
以前、性犯罪者についての本を読んだ時に、彼らは欲望のままに犯罪を犯し、人格的にろくでもないやつらだという烙印を押されているけれど、実はその犯罪的行為自体が、彼らにとっては、何らか傷ついてしまった心が、唯一依存できる伺のようなものになっているのだということを知った。だから、捕まって、その伺を急に外したからといって、外に出れば再びそこに依存 せざるを得ず、再犯となってしまう。彼らこそ、ぼろぼろになった心のケアが必要な人たちであり、当事者同士での語り合いで自他と向き合ったり、刑務所を出た後にどのようなサポート体制を周囲と築けるかが、再犯を防ぐ伴になるのだという。店長がどれほどの苦しさを抱えているのか、詳細はわからない。わからないからこそ、アイダさんの自問は自責になってしまう。
「相手がほんとはすごく苦しいのか、あるいは自分のことだけでいっぱいなのか、どっちなんだろうな」
ともらしたアイダさんに、
「どっちかっていうと、甘えられてるのかなって」
とまたしてもマエダさんの視点が鋭かった。「甘え」は子どもだけのものではない。淋しさから、孤独から、人は甘える。不器用な人ほど、自分で自分をがんじがらめにしている人ほど、その甘えの表出はどこか歪んでいってしまうのかもしれない。誰もが、子が母に抱き着くような、猫が人の足元にすり寄って表現するような、まっすぐな愛情表現や、素直な心情の吐露ができる、そういう相手に出会えることができたら、その人の渇きは少しずつ癒えていくのかもしれない。

6人目 今年お母さんを見送った写真家 タケダさん

「私は"富士山"をリクエストさせてもらいました。この曲を初めて聞いたのが、丁度母と富士山を見に、旅行に行った直後で、勝手にシンパシー感じちゃったんですけど。その時期って丁度、母の病気が目に見えて進行してきた時で、なんかそれに対してなんにもできない自分が嫌だったし、向き合うこともできてなくて。ほんとになんか、なんだろ、自分がほんとに嫌いになってた時で、落ち込んでたんですけど。その時に、紗穂さんの歌ってくれる"富士山"を聴いて、なんかこう、いろんな感情を、なんていうんだろう。うまく言えないんですけど、全部掬ってくれてる感じがすごくして、すごい救われてその時に。あの楕円の夢ツアーで、初めて聞いたんですけど、自分が制御できないくらい、多分抱えていたものがバッて溢れて、涙が止まらなくなっちゃって。横の人がすごい「えっ!?」ってなってたのもわかってたんですけど、止められなくて。」
私自身は2018年に父を見送ったが、別れて育ったこともあって、ここまでの死にゆく親への愛惜の念は、抱くことがなかった。父の死はむしろ、父子が遠く離れていた時間の終焉であって、そのことを無意識にも背負っていた私は、むしろ父を近くに感じられるようになり、ほっとした。しかし、ほぼ女手一つで子どもたち3人を育てた母が将来亡くなるときは、タケダさんの気持ちに近い苦しさを味わうことになるのかもしれない。「富士山」は平田俊子さんの詩だ。喪失の歌であると同時に、愛する誰かが空にのぼっていくとき、最後に目に入る富士山に同化してでも、あなたの記憶に残りたい、という強烈な歌でもある。
「あの歌が、本当に洗い流してくれた感じがして。そこからちょっと、吹っ切れたっていうか、母に向き合うきっかけになった感じがしたんです。でも、どんどん母の病気がひどくになるにつれて、ちょっと聴くのが辛くなっちゃって、その歌詞だったり、富士山だったりを、どうしても母に置き換えちゃって、しばらくほんとにちょっと聴けなかったんですけど。母も1月に亡くなって、今回このウチアケがあるって聞いて、もう一回聴きたいなって。紗穂さんの近くで聴けたらいいなって思って、それで申し込みました」
歌がこれほどまでに、人の心身に入りこんでしまうのだということを改めて感じる。その歌に強く惹きつけられ、状況が変化していけば、その歌の空気感や記憶に苦しめられる。時の経過と共に、再びかつての「好き」という感覚に向き合えるようになっていく。その意味で、さきほどのアイダさんのケースとも似ている。
「この曲聴いてると、母とその旅行、富士山を母が見に行きたいって言って行ったんですけど、二人で早起きして、朝早く見た薄青い富士山。なんかいろんな富士山見たんですけど、でもなんか早朝にふたりで見た富士山をすごい思い出して。今も富士山を、母にやっぱり重ねちゃうんですけど、見守ってくれてるのかなって、今は思い出すとすごい良いです(笑)」 」
平田さんは歌詞の中で「富士山=不二山」としている。古来、富士山はその美しさと威厳から「不二」とも表されてきたのだ。二つとない山。二つとない君。美しい山の姿に亡き人を重ねる。タケダさんが、「富士山」という曲と、お母さんとの思い出を経て、「見守ってくれてる」と富士山を眺められることの美しさを思った。
「なんかすいません、シンとさせて」とタケダさんが言うと、「アーミー」タジリさんが
「またBTSの話でもした方がいいですか」
と皆を笑わせてくれた。


Uchiakeの記 vol.5 射水篇その1

Uchiakeの記 Vol.5

射水のletterは馴染みのある場所だ。最初の富山ライブのとき、オーナーのしきのさんがスタッフとして駅から車で送迎をしてくれた。その後、住宅建設業をしていたしきのさんのお父さんのところに、長く使われずにいた古い郵便局の建物と、その裏に併設された局長さんの自宅である古民家の売却の相談がやってくる。お父さんは考えた末、娘のしきのさんにこの場所をうまく活かしてみないかと託したのだ。壊されていたかもしれない古い建物がこのような流れで、新しい命を与えられた。今、郵便局だった建物には、「ひらすま書房」やお菓子工房「あまや菓子店」が入っている。二階のスペースもレンタルで色々な団体が利用しているようだ。過去に何度もライブをさせてもらったのは、局長さんの自宅だった民家の、池のある中庭を望む和室。ここに(しきのさんの使っていた?)アップライトが常設されている。夏は近くの川から子蟹が遊びにやって来る中庭をぼんやり眺める時間は贅沢だ。
 この日のuchiakeは前日の金沢ライブに合わせて、それならとしきのさんがセッティングしてくれた。トークだけというのも少し味気ないので、10人のリクエスト曲を演奏してからのuchiake開始となった。

リクエスト曲
夕刻
富士山
二輪草
やんやん山形の
北へ向かう
光のたましい
楕円の夢
ねんねぐゎせ
たよりないもののために
歌の生まれる場所

● 1人目  BTSロスから抜けきれない新聞記者 タジリさん
● 2人目 歌いたい男性 ホリエさん
● 3人目 自分でも「語りの集い」をやりたいフリーライター マエダさん
● 4人目 演歌歌手になりたい高校生 ハシモトさん
● 5人目 「楕円の夢」を聴けなくなった作家 アイダさん
● 6人目 今年お母さんを見送った写真家 タケダさん
● 7人目 役割を「演じる」ことに疑問を感じるソーシャルワーカー ワタナベさん
● 8人目 満員電車への疑問を禁じ得ないサラリーマン ラスカルさん 
● 9人目 明日が来るのが怖くてしかたがない タケノウチさん
● 10人目 久々に大人の集まる場に出てこられたお母さん アライさん  


一人目 BTSロスから抜けきれない新聞記者 タジリさん

「『北へ向かう』をリクエストしました。これは出会いと別れを歌い、且つ旅立つ人を祝福するような曲ですよね。最近僕、周りの人に心配されているんですよ。『大丈夫? 生きてる?』とか。会社の人事部の先輩から『死んでない?』とメールが来るほどだったんですよ。もしかしたらこの中の3分の1くらいの人がそうかもしれないんですけど、僕ARMYなんですね」
黒ぶちメガネのタジリさんが、そう話し始めた時、「ARMY」と聞いて何人かが笑ったけれど、私はその単語がBTSファンを意味することを知らなかったので、頭の中は「軍隊?」と大混乱だった。
「つい最近活動休止というか、BTSのメンバーがソロ活動に重心を置くという話が発表されたんですよ。テレビニュースや新聞でも取り上げられました。兵役の問題はあるし、もうグループでの活動は長くなりました。みんなもう大人のアーティストですから、個々人の表現活動を大切にしたいという気持ちは理解できるんです。でも、BTSとしてはこれまでのように見られなくなるかもしれないわけで。そりゃ落ち込みました。前兆のようなものはあったんですよ。バラード調の新曲の歌詞が『こりゃ無傷ではいられないだろう』と感じさせる意味深なものでした。『You and I, best moment is yet to come 』。つまり、『最高の瞬間はこれからやってくるんだ』って。美しい曲に感動しながらも、ザワザワしていたんですよ。何かあるんじゃないかって。そしたら、案の定グループとしての活動は......。ということで、新しい活動方針の発表以降は複雑な気持ちだったんですね。グループの活動を見ていたいけど、それぞれのメンバーの活動も応援したいっていう。そんなわけで『北へ向かう』の『日々生まれていく新しい愛の歌があなたにも聞こえますように』という歌詞を新しい旅立ちを迎える彼らへのエールとしてリクエストしました。えっと、こんな軽量級の話でいいでしょうか?」
BTSは確か男性グループだったと思う。そして韓国にしろ中国にしろ、一般市民の歌唱力レベルは、はっきり言ってシャイな日本人は太刀打ちできないものがある。アイドルグループの歌唱力もレベルが高い。それにしてもBTSには一人の日本人男性をここまで魅了してしまう魅力があるのか、とうならされた。この中の「三分の一がアーミーかもしれない」と思ってしまうほどに夢中なタジリ氏の「愛の歌」がBTSに届くかはわからないが、この日のuchiakeメンバーには十分に伝わった。ほんの少し緊張ムードもある会の導入としてはみなにほどよい脱力を与えてくれた話だった。

二人目 歌いたい男性 ホリエさん
「僕は今日歌いたくて来ました。一曲歌わせてもらってもいいですか?プロだから演奏しない、とか世間ではあると思うんですが、個人的に曲を授かるようになったというか。音楽自体は好きでバンドをやったりもするんですけど、自立したいって気持ちも芽生えて、「歌いたい」と言って歌うために来た感じです。人前で歌うことに何度かチャレンジしたんですが、ダメージくらうことも多くて、でもこれは繰り返して乗り越えないといけない気がして。諦めようと思ったりもしたんですが、この会があるというので。「やさしいことを考える」という曲を歌います」
そう言って、ギターをチューニングし終えると、ホリエさんの演奏が始まった。

やさしいことを考える
やさしいことを考える

心の尖りをまるくして
あなたのことを考える
自分の心を覗き込み
あなたのことを見つけよう

そこにはやさしさがあるだろうか
そこにはやさしさがあるだろうか

あなたのことを考える
自分の心に入り込み
やさしい心をつかみ取り
あなたにそっと伝えよう

自分の心の真ん中の
光も闇も届かない
やさしい心を伝えよう
心をあなたに伝えよう

拍手が起こる。「光も闇も届かない」というのがユニークだ。そういうものと切り離して、人間の心にはそもそもぽっかりとシンプルに優しい心があるのではないか、という気がしてくる。
「もうちょっとしゃべってもいいですか?これが出来た時、こっぱずかしい曲が出来てしまったなと思って封印しようとしたんです。なかったことにしようと思って。仕事の合間に休憩室で『天使日記』を読んでたんですが、そこにルドルフ・シュタイナーの話がでてきて、"理想は霊的であり、魂がやさしさなんだ"って書いてあって。それで、いい曲に思えるようになったというか、あ、なんか大事にしなきゃいけないかなと思って、おかげで今日歌うことができました。ありがとうございます」
曲を授かった、と彼が言ったことも新鮮だった。赤ん坊を授かる、命を授かるという使い方は目にするけれど、男の人が「授かる」と口にするのを初めて聞いたのかもしれない。「曲ができた」でも「曲を作った」でもない。大切な一曲への愛情、音楽への愛が伝わってくる言葉だった。質問が出た。
「できたきっかけはあるんですか?」
「彼女がいるんですが、いい時もあれば悪い時もあって、上手くいかないときに、手紙をばーっと書いて、"これ気持ち悪いな"ってところを省いていく(笑)。ここはこうだったんだよ、わかってほしかったんだよ、っていうエゴイスティックなところを抜いていく。そうしたらさわやかな気持ちのいい文章になったんです。何もおし付けない、でもすごくポジティブな。で、それの方法を今歌ってたっていう感じです。なんであの、光と闇って言うのは、どっちもいい方に言っているエゴと、わかりやすく悪く言っているエゴと。エゴっていう意味です。そういうのを取っ払った先に多分、魂があるのかもしれん、と勝手にドラマチックになっていくんです(笑)」
愛は純粋なものに見えながらエゴが入り込みやすい。書いた後にエゴの部分を意識して俯瞰して見つけ、抜いてみるという作業は確かに大切かもしれない。高山から来たホリエさんは、身近な場所にも表現を発表できる場があるという。
「前はずっとベース弾いたり、太鼓叩いたりやってて。表現者をいかに盛り上げるかっていう裏方の仕事がすきなんです。でも曲を持つと、聞いてもらいたいってこれはエゴなんでしょうけど、そういう気持ちも生まれて。裏方とはいえ、一つの表現を一緒にする仲間として、なんていうかやれることは同じくらいの気持ちであった方がいいんちゃうかなあとも思うんです」
たしかに、サポートする人に歌心があるかどうかはとても大事なことかもしれない。自分のやりたいことをやる人の演奏と、歌に寄り添おうとしてくれる人との演奏というのはやはりとても違うものだ。歌い手としての体感を知っているということはプラスになるだろうと思えた。裏方が好きだけど、自分の創作表現もしたい、というのは一緒にバンド「冬にわかれて」をやっている伊賀さんのことも連想させた。彼は歌わないけれど、バンドを組んでから、作詞作曲に積極的に取り組んでいる。自分の中から出てきた表現というのは、大事に形にして日の当たる所に持って行ってあげられたら一番いい。伊賀さんは、「ひそかに作りためる」タイプでなかなか聞かせてくれなかったのを、どうせ作ったのならちゃんと形にしようよ、とバンドを作った。結果、「冬にわかれて」でリリースしたアルバムに収録した彼の「君の街」という曲はJWAVEで何か月もチャートインするくらいラジオで何度も流れることになった。前回の吉祥寺でのスターパインズでも、歌を披露してくれたヤナセさんがいたが、授かった歌を大切に歌う人と、それを囲む小さな輪から生まれる拍手とが、いつもこの会をあたたかなものにしてくれると感じる。

3人目 自分でも「語りの集い」をやりたいフリーライター マエダさん
「今日来たのは、寺尾さんにお会いしたかったというのが一番ですが、こういうウチアケのような場を自分でもやってみたいなと思っていて。どういう風になるのかしらって知りたくて。ライターの仕事をしていて、伝統工芸とかお祭りとか地場産業とかを取材に行くことが多いんですが、富山は浄土真宗が盛んな土地で、そこで昔は講(こう)っていう、みなで集まって話して考えることを共有して、何か話すうちにすっきりしたとか、何か見えたとか、そうしてそれは仏様のおかげだね、みたいな集いがあったらしいんです。それがすごくよく機能していた時代があったんだろうなと思うので、そんな場を持ちたいなと。汽水空港も好きで、たまに本を買ったり、森さんの文章を読んだりしています」
鳥取の汽水空港という本屋の店主である森さんは「uchiake」を開くきっかけを貰った人だ。「Whole Crisis Catalogをつくる」という企画は、10人ほどの参加者の困りごとや話し合いたいことを聞いて、皆で語り合い、最終的にその記録として困りごとや願い、問題提起のカタログを作っていくというプロジェクトだ。同じようなこころみとしてはじめてみた「uchiake」はもうすこし緩く、特に言いたいことはないけれど、誰かの話に耳を傾けたいという人も参加できるようにした。マエダさんは、この日の「uchiake」前のリクエスト演奏に際して「夕刻」を選んでくれていた。石牟礼道子さんの詩に曲を付けたものだ。
「来週熊本の八代のイグサの取材に行くんです。八代は水俣と湾を共有していることもあって、取材先は化学薬品にできるだけ頼らないで、いいものを作っていきたいということで始まった団体の方たちなので、心のチューニングみたいな感じでリクエストしました」
八代はオウム真理教の麻原彰晃の故郷でもあって、彼の目に抱えていた障害も水銀と関係があったのではないかという話も思い出す。
「水俣病のような公害って、日本では今ないように見えるけれど、日本じゃないところにいってるだけのような気もするし、日本でも見えにくい所に沢山あると思います。」
そうだろうなあと思う。公害が公害であったとわかるまでには時間がかかる。水俣病も早いケースは大正期から出ていたと聞いたことがある。その時に対応できていれば、戦後の悲劇はなかったはずだが、苦しむ人の数が少ないうちは対策は取られない。だから、今マイノリティとされている、アレルギーや化学物質や電磁波への過敏症、もしかしたら発達障害のような症状を抱える人々も、それに苦しむ人がもっと増えてからやっと原因が究明され始め、対策がとられ始めるのかもしれない。敏感な、繊細なアンテナを持つ人たちの身体が、一体何に反応して悲鳴をあげているのか。本当はその声に耳を傾け、存在にもっとスポットが当たらないといけないはずなのだが。
「よくないとされている化学物質や、たとえば原発みたいなもののおかげ今の豊かな暮らしが実現できていることも事実ではありますよね。生きているだけで、何かしらの加害の側にいて、同時に、別の局面では被害の側に居ることもあって...」
突き詰めて考えた時、自分が納得がいかないことには加担しないか、生きるためと割り切るか。これは本当にその人に任される問題だと思うし、どちらが絶対的に間違っているとも正しいとも言えない。自分が苦しすぎれば、そのやり方からは手を引くしかないのだろうと思う。私がこういうテーマで最近思い出すのは、「投資」のことだ。銀行に預けておいても増えないお金を"各自自己責任でNISAでもやって増やしてください"という時代になりつつあるが、投資信託で私が気になるのは、いくつかに分散した投資先の中に軍事企業も絡んでくるところだ。三菱UFJなど、日本の大手銀行の多くが軍事企業にも投資しているとして一時批判記事があがったことがあったが、確実に利益を上げている企業に軍事企業が入ってくることは不思議なことではない。たかがそれだけのこと、と捉える人がいてもおかしくないし、そのことを重く受けとめる人もいるかもしれない。私の場合は、自分のルーツを考えたときに、どうしても手が伸びなくなってしまう。私の父方の曽祖父は戦前、高知で造船会社を営んでいた。その後、海軍の永田修身とのつながりもあって、曽祖父の会社は魚雷の部品を作るようになって儲けた。そうした前半生の成果、資金力と信用とを手に、彼は戦後政界に進出する。私は、これまで南洋に渡った人々の戦争の頃の話を、あちこちで聞いて来た。帰りの船で、魚雷に船を沈められ、家族を目の前で失って来た人々に沢山出会って来た。それがどれだけ、残酷でむごいことだったかを聞きながら、かつて祖先が関わった軍事産業に私は極力距離を置かなければいけない、と感じた。あなたがとる責任ではない、考え過ぎだと言われたこともある。けれど、経済的な豊かさという形で、祖母も、父も、私の人生も確かに曽祖父の人生と繋がっているのだ。目の前で魚雷被害者の話を聞いた私は、私なりのやり方で責任を取りたいと感じた。彼らの話を伝えることはもちろん一つ。それから軍事企業の利益が混じっていると思われる投資とは距離をとること。誰かの苦しみ、誰かの死と引き換えに、富が溜まり、吸い上げられるシステムを変えることは現状できないけれど、距離を取ることはできる。私は、私なりの理由があってそうする。
「でも年金を払うことは日本国への投資信託なので、投資と距離を取ることは実はとても難しかったりもします。投資先にアマゾンの森林破壊につながる事業があるとかも聞きます。でも年金を払うことで、誰かの暮らしが支えられていて、年金て遺族年金とか障がい者年金とかでもあるので、私たちの世代は今高齢の方の世代より貧しいのだから払わなくていいでしょう?って考えることもできなくて。お金は全部繋がっているから、完全にきれいなお金もなくて。それでも、だから、感謝して、自分が良いと思うことにつかうことなのかなって、思うのですが...」
マエダさんが言うように、何かを判断するときに、絶対的に正しい道を選ぶことは不可能だ。年金を払うことは勿論意味のある事だし、あつめられた年金を少しでも増やすために投資先が選ばれ、そこに軍事産業をも手掛ける大企業が含まれる可能性は否定しようがない。3月には日経新聞の記事に「タブーでない防衛産業投資」というタイトルの文章を見つけた。冒頭には、スウェーデンの金融機関が昨年防衛関連株を自社ファンドの投資対象から除外したものの、4月には6つのファンドで防衛企業への投資を可能にしたと書かれていた。実質的なリターンを考えると、除外は現実的でないという判断なのだろう。掲げた理想は思いのほか早くおろされてしまったようだ。しかし、どういうことなのだろうか、人の涙や血が流れ続けるかたわらで、その状況を利用して資産を増やそうとする行為が続けられている。私にはやっぱりわからない。
 2016年に「環境・持続社会」研究センター(JACSES)が編集したレポート「Fair Finance Guide 第4回ケース調査報告書」では、核兵器やクラスター爆弾の製造企業へ三菱UFJ、みずほ、三井住友、三井住友トラストの四銀行が1.4兆円の投資をしていることを扱っているが、この中でアジア太平洋資料センター(PARC)の田中滋氏が「非人道兵器」について次のような註をつけている。

 本レポートでは、核兵器及びクラスター兵器を非人道兵器として調査対象としたが、対人地雷、化学兵器、生物兵器など、非人道兵器として国際条約で規制されている兵器は他にも存在する。加えて、国際条約では規制されていないものの、ロボット兵器など、非戦闘員の民間人を大量に殺害しているとして問題視されている兵器もある。

田中氏の指摘は非常に重要だと思う。「非人道兵器」とは、死にゆく人に過剰な苦しみを与える兵器のことだ。しかし、考えてほしい。非人道的でない兵器なんてあるだろうか。人間を一瞬で殺してあげる兵器は「人道兵器」なのだろうか。人道的殺人などあるのだろうか。最近はドローン兵器や、不気味な動きをする犬型兵器も登場してきている。無差別殺人は心のないロボットによって着実に担われているのだ。田中氏は、兵器というものの多様さを示し、それらについての調査はこのレポートに含まれていないと書くことで、レポートででてきた数字はこの問題の氷山の一角であると伝え、あらためて軍需産業と投資について読む者に考えさせようとしている。
最近は、企業活動におけるESG(環境・社会・企業統治)重視の流れの中で、ESGの中に、侵略やテロから市民を守る抑止力として、武器製造を手掛ける防衛産業を含めようという動きまで出てきているのだという(「いま聞きたいQ&A ESGをめぐる現状と課題について教えてください」ウェブサイト『man@bow』より)。「平和のための戦争」という、空虚な建前がこんなところにまで及んでくるのだろうか。誰かの死や苦しみを、遠ざけ、その意味を薄めつつ忘れ、利用し、より賢く現実を生きるかのように振る舞うということ。多かれ少なかれこの社会がそのようにグレーな現実の中で動いているのだとしたら、せめて、より黒いものを遠ざけ、自分のできる範囲で、より白いものを選んでいくということが、わずかにできることなのだろうと思う。


Uchiakeの記 vol.4 吉祥寺篇その4

Uchiakeの記 vol.4


●1人目 シンガーソングライターにならなかった看護師
●2人目 申し込み時の悩みが解決した映画プロデューサー
●3人目 集団の中にいることが苦手な納棺師
●4人目 台湾人の彼に会えない新社会人
●5人目 自閉症の兄を持つ男性
●6人目 漆器職人の亡父を持つDJ
●7人目 お菓子作りの好きな栄養士(手製クッキーを持参!)


●お菓子作りの好きな栄養士(手製クッキーを持参!)

「好きな人にお菓子をあげて喜んでもらうのが嬉しくてちょっとでも、誰かの心が温かく、じゃなくても(笑)ぬるめくらいでもほっとしていただけたらなと思って今日はクッキーを作ってきました」とサオリさんが言うと思わず拍手が起こった。一人目のヤナセさんの奥さんだ。「アレルギーや人が作ったものは、という方は無理をせずに」と補足するおとなしそうな彼女は栄養士だ。「人の話を聞くのが好きなので参加させていただいて」と言う。

ヤナセさんが、「妻は製菓衛生師さんの資格ももってて、お菓子がすごく上手で、私も大好きで。一回だけ曽我部恵一さんに食べてもらったことがあって美味しいって言っていただいて感激して」とニコニコと説明する。発酵バターを使ったクッキーはココナッツやラベンダーなど種類があって小さいのに食べ応えがあり、本当に美味しかった。焼き菓子は日持ちがする。だから贈り物にも向いているし、今は通販などで趣味のお菓子作りを副業にしている人もいる。お店をネットに作っても、友達から始まってだんだんと広がっていくような気もする。
「めっちゃ美味しいです」
「香りがいいです、ラベンダーの」
「紅茶が飲みたい(笑)」
などはずんだ声が広がる。話は再び「冬にわかれて」に戻っていく。
「寺尾さんの孤独感みたいなものが出てくるソロと違って、やっぱり三人でやってらっしゃるっていうのが、前向きなパワーのような違う良さがある気がして、いつも仕事前に朝日を浴びながら聴く音楽です。それで目を覚ましてます。寺尾さんの声が背筋を伸ばさせると言うか」とヤナセさんが言うと、「びしっとしなきゃっていう、そういう印象あるんですよね」と新社会人のモリモトさんが言葉を継ぐ。「歩きながら普段聞くのと、今日のように座って聞くのとも違いました。一曲一曲小さな物語になっていることに気付くというか、歩いているときは気づかなかった」とハセガワさん。モリモトさんは真っ暗にしてランプだけつけて聞いて「暗いからこそ光が見えたり」、お風呂で歌うと響いて返ってきて「切ない気持ちになったり」してお勧めだと教えてくれた。納棺師のキクチさんは「田舎に行く高速バスで聞くのが好き」という。
 みんな色んなところで、色んな聞き方をしているのだなと不思議な気持ちになる。私は車も持っていないので、ドライブしながら聴くということもほとんどない。けれど、たまに車に乗せてもらう機会があると、車窓から見える景色や天気によって歌の響き方も全く異なることに驚くことがある。
 私はヤナセさんが精神病院を選んだことが気になっていた。看護師全般大変な仕事ではあろうけれども、精神病院での看護の仕事はどのような大変さがあるのだろうか。
「心の問題にすごく興味があって、選びました。すごく刺激的な色んな方が(笑)。死にたいって言う方ばかりって言っても大げさじゃないです。すごい環境で生活してきた方とか、お話を聞きながら関わらせてもらってるんですけど、そういう方って、結構エネルギーが強くてパワーがあって、「困ってる」って訴えされる方が多いんですけど、自分の中でちょっと一線を引いて。自分は常に冷静でいないといけない。それに引っ張られて自分まで落ち込んじゃうということもあるんで、患者さんがわーっとなっても自分は冷静に対処しようと注意して仕事しています。学ばせてもらってます。患者様に」
精神病院も色々なところがあると聞くし、見えない虐待が常態化しているところもあるようだが、「患者様」という言葉に、ヤナセさんの勤めている病院の、患者さんを下にみたり、なれなれしく扱うことのないように、というポリシーが滲んでいるような気がした。たかが言葉だが、されど言葉だ。
「死にたい」人々が集められている現代の精神病院。若い人も増えているはずだ。娘が不登校になってしまったママ友が、娘さんが体重が減ってしまい、そのうち入院て言われてるの、と言っていたのを思い出す。「死にたい」人にエネルギーがないわけではない。むしろ強いエネルギーや気持ちを持った人々が、集団に馴染めないまま、その解放する場所を見いだせずに隘路に迷い込んでいる。最近若手のメディア・アーティストと言われる筑波大准教授の落合陽一氏が、安倍氏暗殺に際して、「政府で働く人の悪口をみんなで言うと、その悪口を聞いた誰かが、日本を良くしようと思って銃でその人を撃ったりするんだよ」という非常に事態を単純化した意見をツイートし、多くの反論が見られたが、落合氏をふくめた若い世代が批判と悪口をごっちゃに捉えてしまう、というのは、娘達が学校で受けている教育を見ていると合点がいくところがある。私たちの世代では、男子が「ブース」と言ったり、誰かをあだ名でからかったり、ということは日常茶飯事だったが、今の子供達は「人を嫌な気持ちにさせるチクチク言葉はいけません」と小学校一年生から習い、あだ名も「いじめ防止」の観点から禁じられ、「さん付け呼び」が徹底されている。容姿をからかったり乱暴な言葉の使用を禁じるのは、欧米諸国でも教育現場で取り入れられているようだし、大切さは理解できるのだが、気になるのは世界の中でもダントツで「空気を読む」日本において、この指導がどう子どもたちの心理や行動に影響するのだろう、というところだ。自分の意見を積極的に言うことが文化として根付いていないところに、「自分の発した言葉が相手にどうとられるのか」と人の気持ちを慮ることばかりを第一に教え込まれていては、「思ったことを言う」こと、ひいては不満や理不尽な状況に対して言葉で発信することまでも委縮させてしまうのではないか、と思うのだ。「チクチク言葉」を禁じる指導と並行して、おかしいと感じることを自由に話せる場を用意したり、違和感を言語化させていくことが重要になってくると思うのだが、娘達の学校のやり方をみる限り、作文のテーマが「この学校のいいところを書きましょう」と限定されていたりして、向かうべきベクトルが真逆である。こうした教育のメッセージは一つであろう。「友達や、母校や、自分の国のいい所を見つけられる「いい子」になりましょう」。最近は多くの学校で週に2日ほどカウンセラーに相談できるようにはなってきているが、こんな雰囲気の教室に、違和感を感じる子どもたちが本音を吐き出せる場所はない。不登校児が増えるのは必然である。
落合氏のように「政府の悪口なんか言っちゃいけない」と感じている人たちが、政治に対して批判的視点を持てるはずもないし、選挙に行く必要性も感じられないだろう。それは長い目でみて、自分たちの首を絞めることになると思う。すでに長年の低投票率が、十分にこの国の首自体を締め上げてきたとも言えるが。
 
その後は、たちあげたレーベル「こほろぎ舎」の名前の由来や、花の寄せ植え「花とこほろぎ」を始めたことについて、質問が続いた。「こほろぎ舎」は尾崎翠の作品「こほろぎ嬢」からとっている。「こほろぎ嬢」はおそらく翠自身が投影されているのだと思うが、ある日の図書館での出来事を描いた作品だ。図書館で「産婆学」の勉強をする女性を見かけた彼女が、その人を見ながら立派な産婆さんになりますように、と祈りながらも、詩や小説といった霞のような文学というものを志し、食い扶持を稼ぐこともままならない自分自身のたよりなさを吐露する場面が印象的だ。世の中を生きて行くことは世の中に合わせて働いていくことでもあるが、そこに馴染めない人間はどうやって生き抜けばいいのか、古今変わらぬ悩みについて書きながら、翠は「私は、ねんじゅう、こおろぎなんかのことが気にかかりました」と書いた。道端のこおろぎのことなど、世間からみたら「取るに足らないこと」だ。けれど、とるにたらないと思われているものを凝視することで見えてくるものがあり、凝視できる人にしか感じ取れない世界があるはずだ。文学者やアーティストの「表現」はそういう場所から生まれていくものだし、自分もいのちの最後まで生み出していきたい。そんな思いを込めて、(また個人的にも立ち止まって虫や生き物を観察するのは大好きなので)「こほろぎ舎」とつけさせてもらった。
「花とこほろぎ」としてウェブの寄せ植え販売を始めたのは、個人的な落ち込みからベランダ仕事に打ち込み、何かのお礼に送ったり身近な人の誕生日に送ったりするところから、寄せ植えを送るという試みを始めたことがきっかけだった。長らく花を贈るといえば花束を送っていたが、時間がくると枯れて捨てられてしまう花束と違って、多年草をいれこんだ寄せ植えは年をまたいで花を咲かせてくれることがある。どれかが枯れたら、好きな花を買ってきてメンバー入れ替えをしてもらってもいし、お庭のある人は土に植え替えてもらってもいい。そうやって形や場所が変わっても、贈られた人の傍で命が続いていくということが素敵に思えた。それから、ある人から聞いた森の話も頭にあった。それは、森の木々は根っこで連絡をとりあっていて、弱っている木がいると、みなで根っこから栄養を送ってあげるのだという。根は水や栄養を吸い上げるもの、としか認識していなかった私はとても驚いた。植物同士、土の下ではそのような交流が行われているのだとしたら、鉢ものも、一鉢に一つの花ではなく寄せ植えにしてあげたら、花同士そこに何か素敵な関係が生まれていくのではないか、そんな思いであらためて寄せ植えに向かい合っている。

会も終盤になり、伊賀さんが感想を言ってくれた。
「先ほどのあなた(新社会人のモリモトさん)のお話がすごくて‥それに対してちゃんと答えられたのかなっていうのが残ってます。解決策をずばっと伝えれないってことが」
「悩みはここらへんにあるんですけど、それはどうにもならないから瞬発的な幸せを吸収しながら生きてて、今日のライブも余韻がしばらく続いて幸せになれるから、もうすごい
幸せをいただきました」とモリモトさん。
「それは嬉しいんですが、でもまあ本質的ではないですよね」
伊賀さんは最後までひっかかりがあるようだったが、必ずしも明確な答えは出さなくてもいいのではないかと思った。他人は他人であって、他人ゆえに本人よりも客観的な意見を提示できるかもしれないが、他人ゆえに捉えきれない部分も多い。事態が複雑であればなおのことだ。それでも一緒にああでもないこうでもない、と考えてみること、その時間と空気を共有することができればuchiakeの目的はおおむね達成されたのだと思っている。それで何が変わるのだ、と言われたらそれは参加者に聴くしかないのだけれど、ぜひ気になる方はこの不思議な温かい場に一度参加してみてもらいたい。もちろん、話したい仲間がいそうなら最初から自分で始めてしまってもかまわないのだ。そんな小さな輪はすでにあちこちで生まれてきているはずだ。
あだちさんは「ちょっと言葉にならないんで」とコメントはパスしていたが、会が終わった後、さらっと話をしてくれた。
「今日なんか来て皆の輪のまわりをまわってたんだよね、あれ天使だったかな。こういうの久しぶりだな」

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