Uchiakeの記 vol.8 上田篇
Uchiakeの記 vol.8 上田篇
一人目 おじいちゃんが特攻兵だった直井さん
二人目 やどかりハウスに暮らす本田さん
三人目 やどかりハウススタッフになった美里さん
四人目 半年間やどかりハウスで暮らした経験のあるはるひさん
五人目 パートナーの連れ子との関係を考える瑞穂さん
六人目 娘たちの不和に悩む元島さん
七人目 主に記録をとってくれた秋山さん
八人目 家族とのこれからの在り方を考える三好さん
九人目 生活保護を受給する妹のいる平田さん
上田映劇での君島大空さんとのライブの翌日、直井さんに提案していただいていた「uchiake」のために、少し離れたゲストハウス「犀の角」に向かう。ブッダの言葉「犀の角のようにただ一人あゆめ」からとっているのだろう。様々な人間関係からもたらされる悩みや苦しみ、そこから逃れるには「ただ一人」になることが必要である。一泊500円で女性が泊れるシェルター「やどかりハウス」としての機能もあわせもつ「犀の角」。困難に満ちた人間関係を逃れて一人の宿を確保する「やどかり」と「犀の角」の思想はひびきあっている。
上田映劇はただの映画館としての機能だけではなく、不登校のこどもたちの居場所にもなり、子供たちと松本在住の三好大輔監督のもと映画作りの活動も行われてきた。私も三好監督とは斜里の8ミリをもとにした映画の音楽を担当したこともあり、上田が面白いという話は監督から少し耳にしていた。加えて、駒ヶ根でライブをしたときにも上田のメンバーのお一人が「犀の角」などが紹介されているパンフレットを手渡してくれ、いつか上田にもと声をかけてくれたので、覚えていた。
「犀の角」の一階はおしゃれなカフェのような広々としたスペースで、低い舞台のようなところに机といすが置かれていて、時間になると少しずつ人が集まった。記録をしてくださる秋山さんを含め9人でスタートする。映画館を子供たちの居場所にする「うえだ子どもシネマクラブ」の代表でもある直井さんが口を開いた。
「昨日のライブがすごすぎて眠れなかった。ライブの時にいろんな景色が浮かんでくるし、思い出すことが多すぎて。亡くなった人、会えなかった人に対して、先に亡くなっちゃったひとのことがすごく沢山でてきて、特に特攻隊の歌。おじいちゃんの景色がすごい出て来た。戦争のこと。おじいちゃんは特攻隊に行く日も決まっていたけど終戦を迎えて行かなかった。何を思ってあの戦後を生きてたんだろうか。それがあったから生まれてこれてよかったね、と家族の中では言われてきたけど、でもたぶんそれはすごいトラウマで、亡くなった人に、ああ聞けばよかったなということを思い出していました」
私がこの日、浅間温泉に滞在した特攻兵たちが歌ったとされる「浅間温泉望郷の歌」を歌ったのは、偶然からだった。前日の名古屋ライブにカメラマンとして来てくれていた滋賀のもりのさんが、同じホテルで朝食をとっているとき、おじいちゃんが魚雷でつっこむ訓練をしていたという話をしてくれたのだ。これから向かう上田は無言館もあるし、同じ長野という意味では浅間温泉のあの歌を歌うのもいいかもしれない。急遽セットリストに入れた。
いまでこそ、『永遠の0』がベストセラーとなり、映画化もされ、知覧の記念館には若い人も多く行くようになったと言われる。さまざまな小説や映画、ドラマの中で特攻隊はどちらかといえば「国を守るため命を投げうった若者」として美化されている。しかし、戦争直後、国民の「特攻の生き残り」への視線は冷たかったと言われる。お前が戦わずのこのこ帰って来たから日本は負けたんだ。そんな心無い言葉が投げつけられたと言われる。まだ少年のような子たちもいた。彼らはグレて戦災孤児たちや全国から集まった浮浪児たちの中で徒党を組み、不良化した者もいた。特攻のため薬物「ヒロポン」を与えられ、死を覚悟するも死にきれず、仲間は死に、戦後は死にそこないと罵られる。多くを語らずとも、若い特攻兵たちの心がどれほど複雑に傷つけられたかは想像に難くない。
「おじいちゃんは教員で仕事人間だったけど、私生児だったんです。最後、ガンを患って。ずっと話を聞きたかったと思っていた。ここ数年昔の亡くなった人たちのトラウマが解決されてない感じがして、でも思い出すことで癒されていくと寺尾さんが昨日言っていて、それを想いました」
直井さんは亡くなったおじいちゃんのトラウマのことを考えていた。犀の角はやどかりハウスを内包している。日々精神を病んでしまった人、トラウマを抱えた人が仲間にいたり、向き合ったりということが日常の中であるのだろう。死んだ人の、生きている間には共有できなかった傷。それは死んですこし和らぐものだろうか。死に損ないとかつていわれた特攻兵であれば、やっと大きく吐息をつけたかもしれない。死は生き延びた罪への遅すぎた贖いだと、そのように生真面目に考え続けた人もいたかもしれない。
「おじいちゃんとおばあちゃんは二人ほぼ同時に亡くなった。おじいちゃんの告別式の時、おばあちゃんが脳梗塞で亡くなって、おじいちゃんが連れて行ったねと」
一人の元特攻兵の死。すべては明かされぬまま、直井さんの胸にそれゆえの余韻を強く残した。どうすべきか、誰もわからない。ただ、そのことが皆に手渡される。MCでも話したことだが、私はライブを訪れる(らしい)目に見えぬものたちについて、色々な人から報告を受けるたび、次のように考えるようになった。死んだ人の多くはその存在を、その抱えていた感情を、生きている私たちに忘れ去られたくないと思っている、なかったことにはしてほしくない。だから、何の答えがでなくても、この場でみなが直井さんのおじいちゃんの人生について思いを馳せてみることは、それだけで意味があるのだと思う。思い、思いやる気持ちは伝わっている。
二人目は本田さん。昨日のライブを見ていない唯一の参加者だった。やどかりハウスに暮らす一人だ。
「今、上田に泊まらせてもらっていて、話を聞けば聞くほど行きたかった。みなさんの中に映ったものをこの場所に漂わせてもらいながら感じたりできたら、と思っています。さっきの話にもありましたが、自分にとって直近の大きなテーマはトラウマの連鎖。世代で繋がっていくことが気になって頭にあるようなところがあったので、今のことに関連してすぐに何かは言えないんですけど、みなさんのお話を聞かせてもらいながら、自分の中に浮かんでくるものを感じられたらと思います」
次の美里さんも、おなじくやどかりハウスのスタッフ。
「1月から上田にきて、犀の角ややどかりのことに関わっています。昨日は手伝いで入らせてもらい、後ろの隅で体育座りをしてステージを見てました。最初立っていたけど座り込みたくなって。ちっちゃい隅で嗚咽をもらすくらい泣いてました。「こんばんはお月さん」のところで色々崩れた感じがしました。自分が何かを話すとき、自分の中でなぜかまだわかってないけど、泣かないと喋れないことがあって、それがこう、全部歌に詰まってる感じ。昨日は泣きつかれて爆睡でした」
「こんばんはお月さん」は私の中で、「ガード下」すなわち路上の人の歌だった。それが、サントリーホールの公演で、日本兵たちが現れた(らしい)こと、翌日「まだ日本兵たちがそばにいる」状態の歌島さんとのやりとりをする中で、あの歌の中の「そんなはずじゃなかったんだ」というフレーズが彼らを引き寄せたことを知った。そういうMCをライブですると、「あれはただ失恋した男の無念の歌だろう」とSNSで書く人もいた。一般にはそう聞く人が多いのかもしれない。とにかく色々解釈を呼び起こす作品だった。が、美里さんがこの歌で「色々崩れた」という言葉を聞いて、また底知れないこの歌のエネルギーを感じざるを得なかった。歌っても歌っても得体のしれない力が秘められている気がした。
次は「クッション」という名前の人形を「大事な相棒」として持っているはるひさん。
「やどかりの名誉会員と呼ばれていて、半年間住んでいました。その中で映劇とか、上田界隈の人たちと仲良くさせてもらって。上田が大事な街になっていて月一くらい来ています。寺尾さんのライブは2回目で、一回目は渋谷の(ラ・ママでの)冬にわかれての、(細井徳太郎さんと)君島さんと一緒のときでした。昨日は「骨の姉さん」で泣き始めてしまって。家族関係で私はすごい悩んでいて、祖父母もまだ生きていて、死を経験したことが本当になくて、未知の世界です。どんなことをその時思うのかなとか、家族のことで悩んだまま誰かの死を経験するのかなとか色々思いました。話したい事がいっぱいあるけど、まとまらないのでひとまず」
「やどかり」なら半年間暮らしても90000円だ。あらためてすごいシステムを作り上げ、維持させていると思う。助けを求めた人が、ここで心身に充電をして、新しい人間関係を構築し、やがてスタッフ側にまわったり、別の街で生活をするために上田を去り、また戻ってきたりする。人生はそう簡単にリセットできない、と言われたりするけれど、こういう形での生き直しができることが希望でなくてなんだろう。場所を変えることは明らかに重要だ。でもみなお金がなくて躊躇する。その敷居を限りなく低く設定することの大切さを改めて思う。
「昨日はライブで、はーってなって、早く家に帰って布団に包まれたい、これ以上の刺激が入ってはもうだめだ、と思って早めに帰りました笑 音楽って本当にすごいと最近感じるようになった。何がこんなにすごいんだろう。「こんばんはお月さん」でもやられ、二人のセッションに立ち会えたこともすごいことだなと思いました」と語ってくれたのは瑞穂さん。
音楽の受け取り方、それによってどれくらいの刺激を受けるかということは人によってもだいぶ差があるようだ、ということを感じるようになったのは、長女を帝劇のミュージカルに連れて行ったりすると生の音の迫力に飲まれて、「すごすぎてほとんど記憶が飛んでる」ほど興奮する、というのを聞いたりする中で思うようになった。長女も繊細なタイプだが、大きな刺激を受けて「もうだめだ」と混乱したり、記憶が飛ぶくらい心が動かされてしまう人というのが一定数いるのだな、と思う。
「恵さんのおじいちゃんの話を受けて、小さいころ亡くなった母方の祖父のこと思い出しました。南佐久のならわしで8月1日にお墓参りをするんですけど、おじたちも70を過ぎて、祖父のこと、昔は「あんな親父は嫌いだった」って話をしていたのに、「百姓もして田んぼをやっててすごかった」という話に変わってきた。おじたちも祖父の姿を自分に重ねているというのもあるんだろうなと眺めている私がいる感じです」
この話は興味深かった。父親へのマイナスの感情が、年老いていく中でプラスに変化していく。この変化があるということに希望を感じた。「今」だけを見ると、見えている状況は変わらないように思えるし、感情も簡単に変えることはできないけれど、時が流れる中で少しずつ人が変化し、別な視点も持つことができるようになるということ。昔、父は自分の父親と仲の悪い時期があった。二人の決裂の風景は、幼い私の記憶にも残っている。学生運動の残り香を嗅いだような世代だった父が、戦時中どうして戦争反対をはっきりと言わなかったのか、と祖父にぶつけ口論となり、絶縁を言い渡した。みなで外食をしているタイミングだったが、父はそのまま出て行ったような気がする。2018年に父が死ぬ直前にインタビューをしたとき、「あれは俺がわかってなかったんだなあ」というので拍子抜けした。あの時だって40近い大人だったはずだが、まるで二十歳のころの自分を振り返るような言い方でちょっとおかしかった。実際、いつまでも二十歳のような青臭い、まっすぐな熱苦しさを持った人だった。その父が、いつの間にか変わっていた。年を取るというのは、全然悪いことじゃないなと思う。誰でもきっと、時を経て小さな経験が積みあがっていくと、少しずつ視野が開けていくのだ。気づかないうちに。もちろん、ごく深刻な虐待などを受けていた当事者の場合もそのように時の流れに伴って変化を得られるのかは、私にはわからない。けれども、そこにその人の視点が変わる可能性があるということが、ひとまずの希望ではないか、と思うのだ。
「昨日は眠れませんでした」というのはやどかりハウスなどでスタッフをつとめる元島さん。
「「骨の姉さん」が頭の中でずっと鳴ってて。「こんばんはお月さん」を聞いて、あの人はもう歌わせない方がいいんじゃないか、ヤバい人なんじゃないか、と朝話してました笑 寺尾さんの歌はずっと聞いてきました」
元島さんは、ある外国人の話をしてくれた。
「観光ビザで来て、法律で阻まれて滞在することができず色々大変でした。最後は要介護状態で、精神病院に警察経由で入院させて国に返したが、行政からは「優しくした責任を取れ」と言われたりしました。精神病院に面会に行っても、彼も一言も口をきかず、怒って「Thanks」と。どうしたらよかったんだろう。警察に引き取られていったとき、どこかほっとした。自宅に彼を泊めたとき、蜂が耳元に出るといつも言っていた。昨日寝ようと思った時に蜂が耳元にいるような気がして飛び起きた。神経が昂るとこういう感じだったのかもしれないと。初めての体験でした」
睡眠を奪い、「耳元に蜂」を感じるほど神経を昂らせたライブは、彼にとって良かったのか悪かったのか・・微妙な気持ちになるが、例にだされた精神疾患のある外国人のケースででてきた「優しくした責任」という言葉が耳について離れない。安易に助けなければ、彼も諦めてさっさと母国に帰っていただろうという、糾弾の調子がこの言葉にはある。しかしなんと貧しい言葉だろうか。優しさとは、本来責任を求める心性とは真逆の態度であり、だからこそ成立する言葉だ。その2つが組み合わされて使われていることの気持ち悪さ。法に触れていそうなら、求められても助けない。条件付きの優しさは本来、優しさと名乗れるものではない。別物である。
思い出すのは、北九州で困窮者支援を続けるNPO抱樸で聞いた言葉だ。
「世の中条件付きの優しさは沢山あふれてるんです。~しなければここにいていいですよ。~できればこの制度が使えますよ、と。でも見た目にわからない軽い障害があったり、精神疾患があったりしてそういう約束ができない、しても守れない人も確かにいる。その人たちの面倒みてくれるところはほとんどない。だから私たちは、条件を何もつけないで受け入れようと決めたんです」
人が集団でかかわって生きるとき、規則やきまり、線引きが行われるのは自然なことではある。ただし、セーフティネットであるべき制度や団体においても、この条件付き優しさであふれているとしたら、そこからあぶれてしまう人がでること、それはもはやセーフティネットとして機能しきれていない、ということもまた容易に想像できる。「優しくした責任をとれ」とは、セーフティネットの一つとしてかぎりなく敷居を低くして様々な人を受け入れようという覚悟ある団体に対して、改めて無礼で不適切な言葉である。
「特攻隊の話もすごい良かった。やどかりハウスもここに駆け込んでいいよっていうと何百人も駆け込んできた。悔しいけど支援の世界ではいないことにされていた人たち。寺尾さんの歌は見えない存在を居ることにしてくれる。そこにちゃんと何があるのかということが見える。それに対して自分がどう変われるのか、ちゃんと見るということが希望だと思う。そういうことをいつも感じています」
次はこの日の記録メモを取ってくれていた秋山さん。
「寺尾さんの曲に救われてきました。体がかちかちになっていたけど溶けていって、見える世界の質が変わっていくような感じがした。声で自分の中の闇の塊が消化されていくような、声と空気に身体がほどけていく感じがありました。人間てこうなれるんだと。上田のみんなと共有できたのが嬉しい」
ライブ後早く家に帰って布団に入りたい、と思う人や、眠れなくなって耳元に蜂を感じる人がいれば、秋山さんのように解放や昇華のようなイメージの感想をくれる人もいる。それは結局、そこまでその人が生きた経験やわだかまりになっている感情がそれぞれに異なり、同じライブを聞いても、ぐったりしたり、ひどくかき乱されたり、逆に癒しを感じたり様々になるということなのだ。父が死ぬ前に手足の感覚が失われていったころ、突然「腕をさすって」と頼まれたときのことを思い出す。その人にとって「大好きな」お父さんであったら、人は喜んで、一生懸命さするのだろうと思うが、私の場合「最愛の、大好きな」というには父との間に距離がありすぎた。だから、その言葉にもものすごく大きな衝撃を受けたし、さするという行為も、しばらくするうちに精神的にへとへとになってしまった。父親の腕をさする、という同じ経験をしても、その感情はその人が経て来た経験や抱えて来た感情によって千差万別であり、歌もまた同じようなものなのかもしれない。
次は、「うえだ子どもシネマクラブ」との活動にも関わる三好さん。
「昨日のライブは別次元でした。終ったあと放心状態で、自分も他のお客さんも歌の力ってこんな風に浴びることができるのかと。年を取ってくるとそういうことに鈍感になっていく自分もいるけど、昨日はそういうところに戻れた感じがしました。上田でそれを目撃できてよかった。」
三好さんは、松本在住なので、斜里のサウンドトラックの録音も松本の「あがたの森文化会館 講堂」を使った。雰囲気も響きもよかったので、松本でのライブもそこでできないか、と相談をしたときに、自分は松本で主催をするほどの時間の余裕がないけど、上田なら寺尾さん好きな人増えてきてる感じもあるし、多分動いてくれるよ、と上田映劇とつないでくれた人でもあった。この日のライブは、私にとっても想像以上に大切なライブになった。君島さんとは行き違いがあって数年来疎遠だった。たまに私の曲をカバーしてくれている話が伝わってきて嬉しく思っても、それはどういうことなのかな、とわからないでいた。でも君島さんが6年ぶりにツーマンが実現したこと、一緒にセッションをできることをよろこびをもってステージで語ってくれたことに甘えて、ここ数年の経緯を私は本番のセッションのときに実は、と「うちあけ」た。みんなと共有させてもらって見守ってもらった。こんなライブ後にも先にもないだろうな、と思う。時がながれて自分の至らなさとか、小ささとか、傷つきやすさとかそういうものを、ちょっと離れて眺められる。それが年を取るってことであれば、全然悪いことじゃないなと思った。
一周したところで、個別な「うちあけ」がぽつりぽつりと語られていく。元島さんからだった。
「今日娘を高校まで送るとき、しゅーしゃいんのアルバム聞きながら来ましたんですが、長女について気になっているのが、三女のことをずっと無視してるんですね。それが苦しすぎて、他の兄弟に話すのに一人だけ無視。注意しても「無理なんだ、しゃべれない」と言う。それ以上できることがなくて三女を寂しくならないようフォローするのが苦しい。長女に聞いても「無理なんだ」くらいしか言わない。一言でも醤油とって、でも言ったらきっかけになるんじゃないかと思うけど、言えない。三女は一時期荒れていて、感情のままに大きな声を出したりしていた。長女はそれが苦手」
我が家の長女も大声を出す人や、人が怒られている現場にいることが苦痛なタイプだからなんとなく想像がついた。その場はなんとかやり過ごしても、そのことに大きな怒りを抱えていて、あとでそれを伝えてきたりする。その苦痛は、苦しみを通り越して怒りになっているのだ。人の知覚には大きな差異がある。色覚もそうだし、聴覚もそうだ。元島さん本人がどうできることでもなく、難しい問題ということは分かった。けれど、どこかに糸口があるとすれば、もう少し時間がたったところで長女と三女が互いにどう感じていたか、そして今はどう感じているか、お互いの関係をどうしていくのがいいか、ということを率直に伝え合ってみるしかないのかもしれない。
瑞穂さんが話を継ぐ。
「娘さんの話を聞きながら思ったのが、パートナーと彼の息子と一緒に住んで1年なんです。娘さんもいるんだけど、ママと住んでる。月に2,3回パパのところにも来る。すごい無邪気でパパのことも大好き、私のことは「瑞穂さん」と認識していて、パパの彼女ということも承知している。来年小学校にあがるけど、ちょっと奇妙な状態。自分はママと住んで、パパの家に遊びに来たときはママじゃないけどママ的な、でもママじゃない人がいる。その感じは戸惑いもあるだろうなと。今の時点で彼女の葛藤というものは見えてこなくて、同い年の友達くらいな感じで一緒に遊んでいる。でもたまにママって言ってくる。でも、何?っていうと、ママじゃないでしょと言われるときがある。彼女の中の戸惑いが少し見える感じがある。私と遊べば楽しいけど、ママが一番大好きで、自分はパパとママの娘というのがある。私は家族に近いけど、他人でもあるということを意識しながら揺れ動いていくのかな。この先彼女が何を感じてどう思っていくのかを見守っていくんだろうと思います。私自身、うっと思いながらも続けていくのかなと」
なんとなく、血の繋がらない娘さんがママって言ってしまったときの情景が目に浮かんだ。小さい子の相手をしたとき、同じような経験がある。そのとき確実に言えたのは、子供が遊びの世界に夢中になっているということだ。それで「いつもの呼びかけ」がふと口に出る。だから、瑞穂さんの話を聞きながら思ったのは、お子さん以上に戸惑いが生まれているのは瑞穂さんの中に、なのかなということだった。そのことを瑞穂さんもすでに気づかれていた。
「彼女の葛藤と言ったけど、それがあるのは私なのかな。私の中の葛藤。これは私の中で大事に扱っていこうと思います」
立場、立ち位置に拘りすぎずに、目の前のその子と向き合って笑いあえていれば、子供の柔らかな心はまっすぐにその人を捉えてくれる。「瑞穂さんは瑞穂さん。大事なひと」ってその娘さんが笑う未来が見えた気がした。
「ここにいる皆さんと共有してみたいと思ったことがあって」とはるひさん。
「家族のことで色々悩んでいて、2年くらい連絡を取っていなかった。高校生のとき家を突然飛び出してやどかりハウスに来て、そこから連絡はとってなかったんです。それが最近父とやりとりをし始めて、手紙を送り合う中で、どういうことが嫌だった、ストレスに感じていたことを教えてほしいと言われたので伝えてみた。向こうもそうだったんだ、と謝られた。だけど、ここからどうしていけばいいんだろうと思っている自分がいる。嫌だったことを言ったからって全部解決、仲直りというかんじでもない。昨日寺尾さんのライブに行って、そういう方向から感じられるものもあるんだと思ったんです。真正面からでなく違う角度からも向き合えるんじゃないか。寺尾さんのライブに家族の誰かと行ってみようかなと思った」
家出をしたところから、お父さんと少しずつ向き合えているはるひさん。距離をおくことの大切さを感じる。そして、謝られたけれど完全に仲直りもできない状況で、何かの体験を共有しようとすること、つまり、面と向き合う以外の方法で、時間を共に過ごしてみることはとても有効だろうという気がした。
「私は離婚してるんですけど」と直井さんが話を継ぐ。
「そのことを両親にだけ直接伝えられていないんです。なんて伝えたらいいか全然わからない。家族というものがすごく苦手で、特に母親であることを全部放棄してて、たまにやりとりはしているけど、長女は実家で両親と暮らし、下の二人は夫と暮らしてます。言おう言おうと思うんだけど、言えない。でも三好さんの映画に両親と行ったらいいんじゃないかと、声かけができたんです。家から8ミリフィルムが見つかって、シネマクラブでやろうとしていることを伝えるのに、映画見に行ってよと言ってみたんです。まだ全然話せてないけど、両親死んでからじゃ遅いよなと」
私も距離のあった父がガンでいよいよたおれる直前、さすがにきちんと向き合わなくてはいけないと感じた。けれど、娘と父としては難しかった。だから、インタビューをする人とされる人という形をとった。聞き書き、人の話やその人の半生の物語をきくことは私がしばしば行ってきた仕事の一つだったからだ。人と向き合うというのも色々ある。映画でも音楽でもいい。真向いの席より、カウンターの方が話しやすかったりするみたいに、たまに横顔をちらっと見るくらいの角度で共通の体験、話題から話しをしてみたら、遠回りしながらもそれが意外とその人の本音を聞けたりするシチュエーションなのかもしれない。もし、そのツールとして私のライブもお役に立てる機会があるのなら嬉しいことだ。
三好さんが家族について口を開いた。
「うちは子供が4人いて、そとからみたらすごい幸せで理想的な家庭だと思うんです。10年以上、家族が並んだ1枚の写真を年賀状にしてだしていました。冷蔵庫に貼ってるよ、という人もいるくらい素敵な家族像がそこには写ってます。自慢の年賀状でした。それが今年はじめて途切れたんです。娘から今年はつくらないの?と言われたんだけど、年末にインフルで寝込んでいたり長男がロンドンへ行って家族が揃わないというのを理由にしてつくらなかった。 昨日、男の未練を歌った歌(「ある告白」)のような気持ちには僕自身なれないと思いながら聴いていました。今53才なんですが、50才になった瞬間に世界の見え方がガラッとかわって、それまで家族を中心にいろんなことを考えていたけれど、ここからは自分を中心に考えようと思った。でもそれが受け入れてもらえているのかはわからない。今、どこに進むべきなのか、もやもやしている。昨日ライブを見て、僕自身はより自分自身というものを一番に、自分がちゃんと立てる方向に行きたいという思いを強くした」
意外な話だった。三好さんの年賀状は私も何度かいただいていて本当に絵にかいたような幸せそうな家族だと思っていた。でも、どれだけ分かり合えたはずの二人でも、時間と共に人間は変化する。反比例するみたいに、人は永遠に憧れる。だからそのことが寂しい場面もあるけれど、本当は変化することは自然なことでもある。
「どうしたらいいだろうって、みんな悩んでるからね。やどかりも駆け込んでくる人はほとんど家族問題」
と元島さん。やどかりハウスを経て、お父さんと手紙のやりとりをするにまで至ったはるひさんは、お父さんに今どういう感情を持っているのだろう。
「今この状態ではわからない。これから許せるのかどうか。許せるかといえば、一生許せない。でもそういう気持ちを抱えた状態で、どういう関係性を作っていけるんだろうというところにシフトしている」
重みのある言葉だった。一生許せないという消しがたい気持ちを認めたうえで、新しい関係性を予感している。熱すぎて触ることさえできなかったどろどろの鉄が、温度を大きく下げ、これまでになかった新しい形に固まろうとしている、そんな状況だろうか。
まだほとんど発言をしていない本田さんはどうだろう。「トラウマの連鎖」とだけ語った家族に対しての感情の現在地が気になった。
「去年自殺未遂をしちゃったんですけど、そのタイミングで憎しみの連鎖を家の中に見て、父は亡くなった祖母のことを死んでも許せなかった人でした。同じ墓に入りたくないと、死んでも許せていない。自分はそうなりたくないと思ってきたのに、自分も憎しみを抱き初めてしまったタイミングでした。それに気づいてしまったとき、連鎖を終わらせるには個人としての自分を焼き尽くす、終わらせないといけないんじゃないかと。その時、元島さんに死んでも終わらないよと言われたのを覚えているけど、すごく憎しみが、多分あります。そのことも受け入れられていない。押し込めようとする。なかったことに本当はできないけど、なかったことにしようとして、でも本当は変わっていけるという話、きっと本当はあるだろうし、変わるとしたら、生きている中でそうなっていく、そういう方に視野を向ける必要があるということは分かりながら、自分の性質なのかわからないけど、死との親和性がもともと高い。死ねると思った時にはじめて安心しちゃって、意識がなくなるという時に。生きていく中で変化するというのはいろんな要素が組み合わされる必要があって、すごくエネルギーが要る気がします。自殺未遂したのはやどかりにきてちょっとして。終わらせる前に、という気持ちも若干あったかもしれない。大学出てからメンタル崩れて入院して故郷に送り返されて」
西洋占星術のホロスコープによれば、その人のおおまかな性質というものは、生まれた瞬間に決まっている。もちろんそこからの知識を得ての変化や、努力による運命の転回は人それぞれあるのだろうが、~しやすさ、あるいは~しにくさ、という傾向が人によって千差万別であり、これによって生きやすさ、生きにくさも大きな違いをもって現れてくる。だから、極端に言えば、「過去は過去、未来はこれから自分が作るんだよ!」と言われたときに、「たしかにそうだよね、しんどいけど、なんとか前を向いてみるよ」と呼応できる人もいれば、「それはわかってはいるんだけど、やっぱり難しいよ」という人もいる。意識が過去に向かいやすい人は後者になりやすいし、もともと未来を考えるタイプの人は前者になりやすい。私はそのことを、ホロスコープに詳しい長女から教わった。そうして「自分のとらえ方次第で人生はいくらでもよくできる!」と自己責任を高らかに掲げるような自己啓発的な物言いが世の中にあふれていることの害悪も改めて考えさせられることになった。たかが占い、ではあるが、人間の感情や性質が「どれも似たり寄ったり」なんてわけはなく、そのバリエーションなんて、無限にあると考える方がリアルに近いだろう。「自分のとらえ方次第で人生はいくらでもよくできる!」という精神主義を簡単に信じられる人たちに、そうしたくてもなかなかできない人たちのしんどさはなかなかわからないだろうし、そうした人たちがたしかに存在することさえしっかりと認識はできないだろう。
本田さんが、「本当は変わっていけるという話、きっと本当はあるだろう」という時、その明るい方に本当は向かいたい、そちらに向かうことでバランスを取りたい、という切実な思いを感じる。自分を終わらせることで憎しみの連鎖を断ち切る、それは何か美しい自己犠牲のようにも感じられる。本田さんが死ねると思ったら「はじめて安心しちゃって」というように、死ぬことで自分が楽になれ、憎しみの連鎖も終わるのなら、一石二鳥のような錯覚も覚えてしまいそうだ。でもそれは「死んだらすべて終わる」のだとしたら、だ。私は自分では何も見えないが、見える人たちの話を総合するに、私のライブに沢山のものたちが現れる(らしい)のは、何かを伝えたいからだろうと思う。サントリーホールに現れた日本兵たちもそうだし、北陸のライブで現れた、悲しみに満ちた夜叉として現れた母親たち、福岡であらわれた河童たちもそうだろう。命はみんな、ここにいるよ、ここに確かにいたんだよ、と訴える。死んでもなお。
本田さんが言うように、変化が起こるとしたら、さまざまなタイミングがかみ合った時なのだろうと思う。でもそれらがかみ合った時、そこには本田さんがいま憂慮するほど大きなエネルギーはいらない、そんな気がする。状況も人の心も、流れるように知らず移ろう。時がもっともよい薬であると、昔の人も言った。変わらなければならない、ではなくて変われることもあるかもしれない。そのことを希望として高々と掲げなくてもよい、ただポケットにそっと忍ばせておく、くらいの感覚で、心にとどめておければいいのかもしれない。私には想像もつかないくらい深い葛藤を抱えた本田さんにとって、それがお守りのようなものになれるのかどうかもわからない。けれど、本田さんがぎりぎりのところで「本当は変わっていけるという話、きっと本当はあるだろう」と皆の前で伝えてくれた姿が、私にはたしかに光のように感じられた。
私自身は、父が死んだとき、ほっとしたという感覚が強かった。それは父が嫌いだったからでも、憎かったからでもなかった。父と距離があった、そのこと自体が重荷になっていたのだ。もう死んだら傍にいる、と思う事ができた。解放感があった。
「たしかに繋がりって物理的なものだけじゃない。家族とは同じ屋根の下にいても繋がってる感じが何もない。でも一緒に住んでなくても心理的にすごく繋がっているという感覚がある人もいる」
と本田さん。常々、人が生きる意味は極言すれば人生を笑って楽しむため、だと思っている。
そのために家族が邪魔なら離れるべきだし、家族でなくてもそれくらい近しい感覚のある人となら一緒にいればいい。本田さんの言うように心理的な距離の近さを信じることができるなら、共に暮らす必要さえないのかもしれない。
「一時期、母が私のことをなんでわかってくれないのか、と思ってて」と言葉を継いだのは瑞穂さん。
「母も祖父の悪口をずっと言っていて、それも理解できなかった。親の悪口を言っていいと私が思ってしまうじゃんと。祖父についての悪口は、子供の時に真っ暗な中お酒を買いに行かされたり、飲めば机をひっくり返す。でも周りからは聖人扱い。最近叔父たちがいっていたのは、戦争の話はできなかった。叔父たちも悲惨な経験だったんだなと感じ取っていたのかなと。祖父がなぜそう暴れたりしていたか、と思いを巡らせると、戦争に行って、そこで見て来たものは私たちに想像しえないことで、話しても伝えきれないと思ったのではないかなと。その想像しえなさを想像します。自分の中にも葛藤はあるけど、母がそこから受けて来たものがあるのだろうと。彼らが悪いわけではなかったという落としどころができて、母に対しての葛藤みたいなものから離れられた」
聞いていて精神科医の蟻塚亮二さんの言葉を思い出した。蟻塚さんは南相馬で震災のトラウマに苦しむ人々に向き合ってクリニックを開いているが、その前は沖縄で沖縄戦のトラウマに苦しむお年寄りの話を長年聞いてきた、という先生だ。その著書の中で読んだエピソードは、温和な性格だったお父さんが、震災後怒りのスイッチがはいると数日怒っているような別人になってしまった、というケースだった。家族に精神科を勧められて、蟻塚さんに出会う。話を聞いていくと、根底にあったのは「震災の時、ものすごく怖かった」という恐怖だったという。そうした強い恐怖を、感情として表出させる場や、人とシェアする場を持てない場合、その恐怖はのちに怒りとして出てくるのだという。蟻塚先生はだからこそ、震災の話題を避けるのではなくみなで語り合うような場が必要だとして、そうした会も定期的に開いている。多くの日本の兵士が、戦場で心に傷を負った。国のために戦ったと戦友と集い、軍歌を歌って振り返れる人もいれば、自分のした殺人や直面した恐怖、戦友たちは死に自分だけが残った罪悪感に長く苦しむ人もいただろう。南方の極限状態では人肉を食べたケースさえあったのだ。瑞穂さんがおじいさんの口から語られなかったことや、語れなかった感情に想いを馳せることは、おじいさんの虚しさや苦しみに寄り添うことでもある。
「結構、問題のある家族の歴史をさかのぼると戦争にたどり着くんですよ」とは元島さん。「おじいちゃんが戦争に行ってて暴れる。唯一その子のことは可愛がっていたけど、機嫌よくさせる役割をその子が担うようになってしまった。色んな事に過敏になって、何かあると自分のせいだと思い込んでしまう。カウンセリングを重ねる中で、祖父の戦争のトラウマが孫のその子に受け渡されてる。戦争が全然終わってない。僕らの目の前にいつもある、という感じがしています」
戦争の傷は終わっておらず、ながらくたくさんの家族の形を歪めて来たということ。支援に関わる人は、そのことを感覚として知っていた。瑞穂さんのケースのように憎しみや嫌悪の対象となってきた家族について、時代を少し遡ってその人を眺めてみることは一つ別の視点をもたらす可能性がある。
「最近はおじさんを愛でたいと思うんですよね。おじさんが恐怖を話せない、といった状況を作ってるのは私たちで、それをどうにかできないかなと」と秋山さん。
「やどかりでお茶会はやってるけど、男性は語れないから。聞いてくれる女性の存在があって、今日みたいだと安心感がありますね」と瑞穂さんの言葉に、元島さんが答える。
「どっかマウントとってしまうというか、安心して自分の弱みを出せない。鼻毛が出てる指摘されたとき、男性がどう反応するかという実験をすると「そんなはずはない」と否定する場合が多いらしくて。素直に認められない。発言について、答えをもって発言しないといけない、中途半端では発言できないという思い込みもあるが、思いついたことを出していいという場も大切。それを誰かが拾ってまた返す。やり取りを通して安心するという感覚を体験することでしか、溶けて行かないものがある気がします」
回も終盤に差し掛かっていたが、私は美里さんが「こんばんはお月さん」のどこのフレーズにうちのめされたのか、それをもう少し詳しく聞きたかった。
「ガード下のところです。その風景が思い浮かんだ時に、本当のガード下じゃなくても社会の暗いところに居させられている人たちの顔が浮かんでくるというか、その中で空を見上げてこんばんはって言ってるような。その風景が自分の中ではグッときます。なんで自分がそうなるのかはわからないけど」
私が路上で生きる人、とひどく限定的に捉えていた「ガード下」という言葉は、たしかに「日の当たらない場所」とも言い換えられる、と気づかされた。社会の底辺に近い場所で、みじめさに耐えてなんとか生きている人たちのいる場所。美里さんは「なんで自分がそうなるかはわからない」と言ったが、自らが歩んだ半生も「日の当たらない」「声の届かない」といった形容をしたくなる部分があったのかもしれない。私は、この歌の「そんなはずじゃなかったんだ」というフレーズに呼応した日本兵たちのことも思い出す。2重3重の意味で「ガード下」という言葉が身に迫って来た。「そうさここはガード下 まるで逆立ちでもしてるみたい」。半円のアーチの天井を眺めながら寝っ転がるガード下。どっちが上でどっちが下だ?私の中に、地下の国で日本兵たちが地下側の半円アーチの天井を眺めて寝っ転がる絵が見えた。私は生き残り、取り残された者としての「戦災孤児」を歌ったが、戦争で不本意な死を迎えたものたちもまた、黄泉の国に「取り残された」者たちではなかったか。この歌は時代を越えて、それぞれの場所でうずもれた声たちを集約する力があるのではないか。美里さんの指摘は、私にとって大きな意味を持った。そして、どれほど現実にうちのめされても、お月さんを見上げて呼びかけ続けるこの男に魅せられる。空を見上げなきゃ、月は見えない。辛いけど、やっぱりそっちの明るい方に向かいたい、という祈りのようなものを感じるのだ。男が月に呼びかけるとき、彼は無力ではない。不安定さを孕みつつも、生への憧憬が、渇望が、この作品の核になっている。それが様々な人を引き付ける磁力にもなっているのだろう。直井さんはガード下をもう少し違う角度でとらえた。
「世界には存在していることが耐えられない瞬間がある。橋の下とかガード下にいる感覚のほうが救われる。太陽の下より影の下の方が落ち着くように」
直井さんは昨日Aさんという上田の街中でよくみかけるおじいさんの話をしてくれていた。かたくなに路上にこだわっていた方だったけど、最後自分の身体が弱ってきたのを察したのか「家がほしい」と言い、行政の人も動いてくれて終の棲家を見つけた。でも家に入った途端人とのつながりが薄くなってしまったからなのか、スプーンも持てないくらいになってしまって、ちょうどライブの日に病院に搬送されてしまった。
まだ元気なころ、Aさんの存在は多くの人に認められていた。
「Aさんは社会にすごい意思表示をしながら街に存在していた。地球はホームだと言って、トイレは公園、冷蔵庫はツルヤ、お湯はコンビニ」
「Aさんがちらかすから商店街のベンチをなくすという動きもうまれたが、ぼくらはむしろベンチを増やした」と元島さん。
Aさんのことを面白いと親しみを感じる人がいる一方で、ゴミをちらかして汚い、迷惑と捉える人ももちろんいる。大事なのは、一つの色に染まることでなく、それぞれが勝手に動くことなのかもしれない。ベンチ撤去に抗議、反対する前に、すぐにベンチを増やす。行動には行動を。ばらばらな世の中で、でも面白がって心寄せる人がいれば、その人はなんとか生きていける。人生の後半に若い世代と繋がれることができた、Aさん。きっとその時間を楽しんでいたのではないだろうか。
さて、このuchiakeは最後まで答えの出ないつぶやきが寄せられた。違うテーブルでなんとなく参加してくれていた平田さんだ。
「家族ってほんとに難しい。妹が出産して生活保護を利用しているが、色々手放さなきゃいけないものがある。車も売れと言われたが手放したくないから一時的に名義を貸してくれという話があり、自分は不正受給になるから協力したくなくて、関係がぎくしゃくして何か月も連絡を取っていない。車に乗る必要があるなら、堂々と裁判すればいい。それをこそこそやるのは違うだろうと思う。やどかりでも似たような事例は聞くが、妹のこととなると、そもそも避妊せずに妊娠したのもいかがなものかと、審判的な態度になってしまう」
地方では車も生活の命綱と言えるが、妹さんが暮らす地方都市は交通網も比較的あり、手放す必要があるとのことだった。受給のために、便宜を図ってやるかやらないか。このあたりは人によって考えが分かれるところだろうという気がした。しかし、やるなら裁判してやれ、という実直な考えの平田さんには、妹さんのやり方が全く受け入れられないようだった。人間譲れないところというのは誰しもあるので、妹さんには加担しないということで、距離ができても仕方ないだろうと思われた。これが正解、という答えはだしにくいが、平田さん自身が語ることで少しでも落ち着かない気持ちを整理できるきっかけになればいいなと思う。
回の終わり、「芋騒動」の話題になった。なんでも、じゃがいもを人々に配りながら行進するのだという。ユーモラスな行動には、熱い思いが込められている。うえだ子どもシネマクラブと上田映劇、犀の角、やどかりハウス。ゆるやかに繋がりながら広がった彼らの活動は決して内に閉じていない。街に呼びかけ街に根付きながら街を揺さぶる。「芋騒動2025 マニフェスト」の最後はこのように終わる。
芋を植え、鍋を囲もう。 音を鳴らし、色を塗り、仮装して、なりたいものになってみよう。 自分の言葉で語りあおう。 楽しもう。
私たちには、この時間が必要だ。
みんなで明日を生きるために。
私が私で、あるために。
私たちはいまここにいる。